2005年10月 院内旅行・宮島へ
今回の旅行で学んだこと
1宮島に関係する人は誰がいるのだろうか?
2平清盛が何の目的で厳島神社を建立したのだろうか?
3平清盛は福原に都を移し、大輪田泊を作って、宋との貿易により富を蓄えたが、当時の大輪田泊から赤間関までの瀬戸内海航路は何処を航行していたのだろうか?
4険しい弥山の山頂に真言宗のお寺があり、昨年行った国東半島も険しい山の中に天台宗のお寺があったが、自力本願と他力本願とは何だろうか?そして神様と仏様が一緒にまつってあったが、何故神社とお寺に別たのだろうか?
5水軍を持たない毛利元就はどのようにして、厳島の戦いをし,勝利したのだろうか?

  海中を敷地とした奇想天外なこの構想は、御祭神が海の神様であるため現世に竜宮城を再現しようとしたためか、また来世を船で渡って極楽浄土にまいる藤原時代の浄土信仰の一つのあらわれか、とにかくも平安時代の人工美と自然美の調和がここに結晶した一大偉観です。
  593年(推古元)佐伯鞍職[さえきくらもと]の創建と伝えられ、1168年(仁安3)平清盛が現在ある寝殿造の社殿を造営した。
 弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社運はふたたび上昇しはじめました。豊臣秀吉も、九州遠征のさいに立ち寄り、安国寺に大経堂の建立を命じています。
宮島に着くと、鹿がお出迎え、鹿を連れて厳島神社へ

日なたぼっこ 奇麗なお姉さんと鹿


塔の岡 厳島合戦で陶軍が陣を構えた古戦場

”お兄ちゃん何してるの?”
”私もお願いしよう”
”皆さんこちらが五重塔でございます”
byクリニックで一番笑顔が素敵なガイドさん
”トーテムポールと五重塔
この独創的な五重塔の建立の年代は、応永14年(1407)。明治初年の神仏分離令により、塔内の仏像は大願寺に移し、
建物は厳島神社が維持管理するようになったと言われています。

千畳閣
上:熟女4人組。まだまだ若い者には負けません!!
  
 豊臣秀吉が毎月一度、千部経の転読供養をするために天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊を奉行として着手させました。着工以来10年余、秀吉の死(1598)によって完成をみないまま今日におよんでいます。天井が張ってなく、小屋組が見えたり、また正面縁側が切り込みになって床に竹のすの子張りのところがありますが、これは正面入口がつけられるはずで完成しておればさぞ豪華なものであったろうとおしまれます。(全部畳を敷けば857畳)。明治初年の神仏分離令により仏像を大願寺に移し、千畳閣と改称して閣内に豊国大明神を祀った。

                 左:皆さん笑顔で宮島を楽しんでいます。

弥山山頂より
左に江田島を、正面に倉橋島をのぞむ
波おだやかな安芸灘
山頂近くには、大同元年(806)弘法大師が唐より帰朝の途中この山に錫(しゃく)を留めて護摩を焚き求聞持(ぐもんじ)の修法を行ったと伝えられる「求聞持堂(弥山本堂)」、そしてその当時から燃えつづけている「不消の火」の霊火堂及び三鬼堂、大日堂、毘沙聞堂(びしゃもんどう)がこけむした巨岩の間に立ちならんでいます。
大聖院
  霊峰・弥山には、弘法大師の足跡を残す遺跡が各所にある。大聖院はそれらを統括する真言宗御室派の大本山であり、宮島で最古の歴史を持つ寺院である。本堂には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、海上安全を祈願した波切不動明王が、観音堂には十一面観音菩薩が祀られている。
 明治の神仏分離までは、厳島神社の別当寺で、「座主」(ざす)は供僧を率いて神社の法会を勤めていた
大聖院の仁王さんの真似をしていたら、、、 いつの間にか6人に増えました。

     上:鐘の下にあるたくさんのお地蔵さん

左:千手観音ごっこ。ご利益がありますよ。

         上酉地蔵
  酉年と言うことで、酉地蔵の真似をしてもらいました。

左:力持ち
垂れ下がった木を支えています

”きゃ〜恐い”
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