2001年2月上杉鷹山公生誕250周年記念、上杉雪灯籠祭りに行きました。大雪の為に1月から陸の孤島と化した山形。果たしてたどり着くのかと福岡空港→仙台→米沢と遠い道程でした。2mの積雪の市内を散策し、米沢紬も発注し、鈴源は玄関まで行くも閉まっていました。上杉神社境内、松が岬公園の散策、19時冷えきった体に、インターネットで予約した吉亭の米沢牛のすき焼は生まれて初めて味わう美味しさでした。 | |||||||||
米沢とは @1380年伊達宗遠が米沢地方を治め、1567年伊達政宗米沢で生まれる。政宗は1590年小田原の豊臣秀吉に初めて参陣するが、1591年政宗が会津葦名義広を討伐した罪により、秀吉に米沢から岩出山に移され、212年に及ぶ伊達の米沢支配が終わる。 A米沢藩第1代藩主上杉景勝(1554〜1623)は越後魚沼郡上田城で生まれる。父長尾政影の死後10歳で、叔父の上杉謙信の養子となる。謙信(1530〜1579年、北条氏の猛攻を受け、居城を追われた関東管領・上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られ、上杉政虎と名乗り、後に室町将軍・足利義輝から「輝」の字をもらい、上杉輝虎と名乗った。謙信は法名である。)の死後景勝が第2代当主となった。織田信長亡き後、秀吉は景勝と大阪城で会見し、1590年秀吉に従い小田原征伐に参加、朝鮮出兵では抜群の武功を立てた。よって1698年秀吉は、上杉景勝に会津120万石の領地を与え、東北諸大名の押さえとした。 秀吉の死後、1600年徳川家康と戦い敗れ、1601年上杉景勝は会津から米沢30万石に移封された。その後米沢藩の基礎を固めたが1623年病死した。以後13代270年上杉支配が続いた。 B1641年吉良上野介生まれる。18歳で上杉富子(曽祖父は上杉謙信、父定勝は米沢藩第2代藩主、兄綱勝は第3代藩主)と結婚し、1664年米沢藩第3代藩主綱勝が吉良邸を訪問後急死し、吉良上野介の長男綱憲2歳が米沢上杉家を相続し米沢藩第4代藩主となる。その相続を理由に徳川幕府から領地を30万石から15万石に半減されたが、取り潰しは免れた。1701年刃傷松の廊下、1702年赤穂浪死による吉良邸討ち入り。 C米沢藩第8代藩主上杉重定の時は、赤穂事件により上杉歴代の官位が最下位の大炊頭に下がり、1753年には東叡山修理を命じられ、工事費5万7千両を使い、財政が困窮する。 |
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上杉鷹山(1751〜1822)第9代米沢藩主 日向国(宮崎県児湯郡高鍋町)高鍋藩3万石の第6代藩主秋月種美の次男として江戸屋敷にて生まれる。長兄は高鍋藩第7代藩主となる。母は筑前秋月城主黒田長治の娘、母方の祖母は米沢第5代藩主上杉綱憲(吉良上野介と上杉富子の長男)の娘、10歳のときに第8代米沢藩主上杉重定公の養子となる。17歳で家督を相続し、第9代藩主上杉治憲と名乗る。52歳総髪してから鷹山と名乗る。 鷹山公が藩主になった頃は、財政難は危機に瀕していた。そこで藩政改革に着手し、藩の復興のために生涯を捧げるた。田畑の開墾、桑、こうぞうや漆等を各百万本を植えるなど大事業を次々に行た。栽培、養蚕、製糸、織物、製陶などの新産業の開発にも力を入れた。身分が低くても有能な者はどんどん採用して藩政に参画さた。これらの事業はすべて借財によって行われたことが注目すべき点です。自ら大倹約の改革を断行し藩財政の立て直した経営業績が現代でもリストラの神様と云われる由縁です。35歳で隠居をし、71歳で死去するまで、第12代藩主の成治を補助、指導した。 ”なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 情なりけり。”は有名です。 |
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米沢織 米沢織は上杉鷹山が、藩財政建て直しのために殖産振興として、武士の婦女子に手内職として織物を修得、開発したのが始まりです。先進地であった新潟県小千谷から技術者を招き、指導に当たらせた。その後養蚕の発展と共に絹織物へと転換して行った。特長はなんといっても自然の染色を生かした『草木染』。上杉鷹山の時代に盛んになってから、自然の素材を自然の染料(紅花、藍、くちなし、ザクロ、くるみ等)で染め上げ、織り上げて来た伝統は現在まで続いている。現在、袴の生産量においては全国の95%を誇ってる。 |
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2mを越える積雪 |
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5mの上杉鷹山公の雪像 |
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米沢牛の料亭 |
米沢織の織り元直販店、単衣を作りました。 |
鈴源織 米沢織の織り元、とんびの生地を買いました。 |
男の着物冬 |