四国遍路No1 一番札所霊山寺から43番明石寺
 80歳を過ぎ、同級生の訃報を聞くようになりました。今日まで多くの方々に助けられて、健康で満足な人生が過ごせたことに感謝をして、四国遍路に行くことを計画しました。弘法大師の修行の足跡をたどる旅が『同行二人』と言われるお遍路の旅です。空と海に導かれ、自然と触れ合い、心して手を合わせてお経を唱える八十八ヶ所巡拝の旅は私たちの疲れた心を癒し、感動を与えてくれる信仰の旅です。
 今回は、四国四県1周すると1460Km、八十八ヶ所の内徳島県の第1番札所霊山寺から高知県を周り、愛媛県の43番札所明石寺まで6泊7日で巡拝しました。四国霊場公認先達資格を有するドライバーさん(歴史、建築、人類学、文学、日本哲学に精通した経験豊かな「先達」と呼ばれるガイド)に同行をお願いしました。多くのことを懇切丁寧に教えてくれました。
                   私の遍路姿
 白衣の背中には『南無大師遍照金剛』、『同人二人』と書かれている。
 頭蛇袋ずたぶくろ:納経帳や納札、数珠、経本、線香、お賽銭袋、ロウソク、
               ライター、ペットボトルなど持ち物を入れて持ち歩く。
納札:読経あるいは写経を納めた証に本堂と大師同の2カ所でこの札を納めます。1枚ずつ表には自分の住所と名前、参拝年月日、願い事などを書きます。
     
  すげ笠には、『弥勒菩薩(みくろぼさつ)を表す梵字(ぼんじ)、同行二人の文字、迷故三界城、迷いがあるから壁に囲まれ自分のもに執着するが、悟故十方空、悟りを開けば全ては十方は空くう)だ。本来無東西、もともと東も西もない何処有南北どこに南や北があるというものか。という文字が書かれている。  半袈裟;私のは『高野山 参与』と書かれてる。
 数珠は、煩悩の数108個の球が連なる真言宗
       用の
尺2振り金剛菩提樹です
納経帳:参拝した証として各寺の納経所で墨書と
      ご朱印をいただくための帳面。回るたびに同じ      納経帳を使って重ねて印をしていきます
 0番札所西安(唐の長安)の青龍寺の朱印です。恵果阿闍梨から空海に真密教が伝授され、空海阿闍梨を授受した。青龍寺まで行ってきました。

 金剛杖には、『般若心経』が書かれている。杖の上部には五輪塔をかたどった刻みがあり、空・風・火・水・地を表す5つの梵字が書かれている。
      杖は弘法大師の化身なので、不浄な場所に持って入らず、休む際も杖の先を洗ってふき、合掌し、出かける際も合掌してから持ちましょう。また、橋の上ではお大師さんが橋の下でお休みされたことがあるという言い伝えから、杖を突かないならわしがあります
  
御影入れ納経所ではご朱印にお寺の御本尊が描かれた御影の絵をいただく。その絵の保存帳。
発心の道場阿波発願とは、悟りを求める心を起こす、自己及び他人を救済する心を起こす、ことをさし、一般的には願掛けと同意。第1番霊山寺から9番法輪寺まで
   
 1.霊山寺りょうざん仁王門がある。 :聖武天皇の勅願により行基が創建した質素な寺、神仏分離令で別れた隣の大麻比古神社は豪華な阿波の国一の宮       本堂
   四国を巡礼する際の「戒め」「掟」が記されており、戒律は全部で10項目十善戒すなわち、不殺生:殺さない、不偸盗:盗まない、不邪淫:姦淫しない、不妄語:自慢しない、不綺語:無礼を働かない、不悪語:嘘をつかない、不両舌:偽善者にならない、不慳貪:貪欲にならない、不瞋恚:怒らない、不邪見:他人を恨まない、
 どの寺院を訪れても、その中心にあるのは「般若心経」の唱和である。般若心経には深い意味があり、哲学的である。「すべては無である」と信じ、人間の感覚を疑い、存在の「空」を瞑想すべきである。

門前一番街で殆どの遍路用品を揃えました。
寺院では、門の前で合掌礼。手を洗い、口を注ぎ、鐘楼をつく。
本堂で、燈明と線香3本をあげ、お賽銭を納める。納札を入れる。
     開経ノ言葉、懺悔の言葉、3帰、3きょう、十善戒、
     発菩提心真言と3摩耶戒真言を3回繰り返し唱える。
    般若心経。ご本尊真言、光明真言、御宝号を各3回唱える。回向
大師堂でも同じ
 不明動王  池泉池があり、1394年建立の多宝塔がある  
 
 2.極楽寺:行基創建、大師自刻の阿弥陀如来と 大師 お手植えの長命杉 、樹齢1200年  右の階段奥に本堂と大師堂がある
 
3.金泉寺1,185年屋島へ向かう義経が陣を張った。弁慶の力石、水不足に悩む住民の為に大師が掘った黄金の井戸がある。                    釈迦如来
 
4.大日寺:朱塗りの鐘楼門       何度も廃寺となった。本尊は大日如来 2番極楽寺にて
     

5.地蔵寺:かっては300の末寺があり、境内には12の支坊があった。大師作の勝軍地蔵菩薩が本尊で、胎内仏。御影堂の愛染明王は頼朝の寄進。  

 奥の院には1774年創建の5百羅漢がある。  大銀杏
     
.安楽寺本堂には薬師如来がある 宿坊を持つ寺 宿坊には温泉がある   
     

8.熊谷寺:鐘門から本堂へは300m上り、その奥にあかげ谷という大師が修行した場所がある。 

高さ13mの仁王門   
   
9.法輪寺 1431年に彫られた大師像 大師作の四国唯一の釈迦涅槃像   
   

.十楽寺:大師作の阿弥陀如来。十楽とは極楽浄土の階位を示す九品の上にある至上世界の事。山門の艶やかさ。

宿坊光明会館に泊し、朝は6時30分から勤業をし、宿泊者は数名であった。 七堂伽藍を誇る寺院であったが戦国時代に兵火で焼失した。   人間が背負う八つの苦難から逃れ十の楽しみが得られるようにと願いが込められて、大師が名ずけた。仁王門

第10番切幡寺から17番井戸寺
 
10切幡寺:本堂まで800m急坂、333段の石段。ここまでが序編 本尊は千手観音像  感動的な伝説と非常に美しい境内を持つ その森も 素晴らしい
 
 11藤井寺:発心の道場の始まり、薬師如来7堂伽藍の立派な寺であった、蜂須賀家に庇護され、真言宗から臨済宗に転宗したが、兵火、火災で縮小。    
歩けばここから焼山寺まで6〜8時間かかる。
難航苦行の遍路ころがし、一に焼山、二にお鶴、三に太龍と言われた。
 
標高938m、両側には巨大な杉林が続く
 
 12.焼山寺:道筋に、弘法大師が修行したという八畳岩がある。修行大師の銅像、長戸庵、杖杉(じょうしん)庵など歩けば8時間ほど 、2番目に高い標高800m 大蛇を岩窟に閉じ込め、そこに寺を建てたと言う。  
 途中、右衛門三郎の碑  衛門三郎の伝説

天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎は、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。
ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門前に現れ托鉢をしようとしました。三郎はその僧侶を追い返しました。その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。
その後、三郎の家では不幸が続きました。8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。
弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。
翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。その石はお寺に納められ、今も大事に祀られています。

 
 13.大日寺:護摩修行をしていると大日如来が出現した。大日如来を刻みその一字を建立。熊野修験の影響、一宮の別当寺  幸せ観音:両手の中にも小さな観音像がある  
 
14.常楽寺 :熊野修験と深く結びつく、八十八ヶ所中唯一大師自刻の弥         勒菩薩が本尊はここだけである。      本堂前のアララギの霊木には小さなアララギ大師が鎮座している。
常楽寺は巨大な岩盤の上に立っており境内には岩肌が流水岩が波打っている。
山頭火の『人生即遍路』の碑がある。
 近くまで海が入り国府との関係で建立された。
 
 15.国分寺:741年に建立されるも兵火で焼失し、1741年再建され曹洞宗となる。、国府のあった南側、  当時の寺域は2Km四方,7重塔がそびえていた。  平安中期には曹洞宗に改宗
 
 16.観音寺:仁王門。聖武天皇の勅願寺として本尊は千手千眼観音  脇待像として不動明王、毘沙門天像。本尊は8番熊谷寺と同じ、熊野修験の影響か?  
 四国おへんろnetより    
 17.井戸寺:お大師さんが錫杖(しゃくじょう)で井戸を掘ったと言われている。かっては塔頭(たっちゅう)12坊、大師作の11面観音立像、本尊は聖徳大子作の七仏薬師如来、行基作の日光、月光菩薩    

18番恩山寺から23番薬王寺
   
18.恩山寺:義経上陸の地の碑がある。聖武天皇の勅願で行基が開いた女人禁制の修行道場、紀伊水道を航行する船の灯台の役目  行基作薬師如来像、  
     
19.立江寺:関所の寺、橋を渡る時に白鷺が舞い降りると巡礼の資格がある。行基が創建、行基作の地蔵菩薩5cmは空海作の延命地蔵菩薩182cmの胎内にある  四国霊場には4つの関門寺がある。その一つがここ立江寺  子授地蔵
 
20.鶴林寺 :桓武天皇の直願により大師が開き、7つの塔を持つ広大な寺院であった。運慶作の仁王像、胎蔵界の道場、標高550m    21番までの2kmは遍路ころがしの難所坂  白鶴が杉の梢に舞い降りた。3重の塔があり、国宝地蔵尊
2775mロープ―ウエイで10分、遠くに紀伊半島が望める。  
   樹齢数百年の杉、ヒノキの巨木が聳え霊感を感じさせられる。
  21.太龍寺 :金剛界の道場、竜神信仰 弘法大師が100日修行した。 西の高野と言われる標高618m、龍灯杉、  虚空蔵菩薩真言を1日に2万回、50日間にわたり唱える修行が現在でも行われている  
     
 22.平等寺本堂に上がる階段下左側に弘法大師が掘った「白水の井戸」があり、今でも枯れることなく万病に効く「弘法の井戸」として崇められている。女厄坂  本尊は薬師如来  
     
 23.薬王寺:仁王像は運慶の作、本尊は地蔵菩薩は国宝と本尊薬師如来は 新旧2体が背中合わせにある。
難所となる札所男厄坂42段・女厄坂33段・還暦厄坂61段の石段
 ゆぎ塔高さ29メートルの楼閣。上方が四角、下方が円筒形で一重の塔。天と地の和合を説く『瑜祇経』の教えに基づき、屋根に五柱の相輪が立つ  宿泊した:宍喰温泉ホテルリビエラより太平洋に昇る朝日
ここから24番発御崎寺まで77Km

修行の道場土佐:
24番最御崎寺から31番竹林寺
  
 
      室戸岬の大師が荒磯修行の場であった御蔵洞     洞窟の中で聞こえる豪快な波の音は、『日本の音風100選』に選定されている  この洞窟から見える風景は空と海のみである。『空海』の法名を得た。
 

24.最御崎(ほつみさき)寺:。女人禁制だった、

 23番から83Km,室戸岬の頂上にある寺  空海が求聞持法(ぐもんじほう)を修めた地、本尊は虚空蔵菩薩
(12番焼山寺と21番太龍寺のみの3寺が虚空蔵菩薩)
 
25.津照寺漁師の守り本尊の寺、難所となる札所124段の石段、中ほどに中国風の鐘楼、真ん中に船舵のマーク   急こう配の長い階段の途中にある竜宮城を思わせる鐘楼門は別名仏の灯台と呼ばれている。
 佐藩主・山内一豊公の乗った船が急な嵐で遭難しかかったところ、一人の僧が現れ舵を取って船を無事帰還させた。
翌日、津寺を訪ねると本尊の地蔵菩薩がびしょ濡れだったという。これより本尊を別名「舵取り地蔵」とも呼ばれています。
 
     
     
26.金剛頂寺33段の女厄坂、次に42段の男厄坂  807年大師が創建した寺、本尊薬師如来は秘仏。 20と21番、25と26番と同じく胎蔵と金剛界  
 
 
行基作の十一面観音菩薩  かっては神仏合祀であった
27.神峯こうのみね寺:6つあるへんろころがしの1つ、土佐の関所寺。難所  、標高500m  
     
 28.大日寺:二十七から40Km 大日如来    
 
 29.国分寺:かっては土佐随一の寺。当時は3千坪の東大寺式の七堂伽藍  本堂は長曾我部国親、元親の親子によって再建された。  
     
30.善楽寺:高知一宮。土佐は廃仏毀釈の最も盛んだったところで、多大な被害を受けた  廃寺となり、  30番札所は安楽寺であった。昭和四年に善楽寺が再建されたので、安楽寺は善楽寺の奥の院となった。  
     宿泊は、高知市山翠園
竹林寺はとても 美しく、牧野植物園のすぐ近くにある。
 31.竹林寺:聖武天皇が行基に命じて唐の5台山を探させたという。  純信とお馬の悲恋の物語。大師堂裏の船岡堂で即身成仏した  

32番禅師峰寺から38番金剛福寺
   
32.禅師峰寺ぜんじぶじ    大師はここでも虚空蔵求聞持法( こくうぞうぐもんじほうを修めた。    
  
 桂浜  桂浜に建つ坂本竜馬像  地球は丸く見える  
     
 33.雪蹊せっけい寺:禅寺、真言宗から臨済宗に改めた。長曾我部元親の援助により以後長曾我部氏の菩提寺。廃物棄却令で廃寺になるも太玄和尚が復興した。。  運慶と湛慶親子が運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされる  太玄和尚(96歳の生涯):昭和の傑僧といわれ終戦当時の鈴木首相から戦争をいかに終わらせるかの相談を受け天皇は象徴として、日本は負けて勝つべきと説き、鈴木首相にあてた書簡からの「堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の陛下の玉音放送の文言は有名。  
     
 34.種間たねま寺6世紀末百済から派遣された造仏工・造寺工が難波津に四天王寺を建立して帰国の途次、土佐沖で時化に会い一時避難した。  唐から持ち帰った五穀ノ種子を蒔いたことから寺ん名がついてと伝わっている。  その時に薬師如来を作ったという。底なし柄杓を奉納すると産道の通りが良くなり安産の神様。  
   
 35.清瀧寺:本堂の石段前の15mの薬師如来像。  12mもある薬師如来像、像内は戒壇巡りが出来る    
 
  緑が深く印象的なお寺で、仏教の怒りを表す不動明王を見ることができる名所の一つ。  
 
 36.青龍寺:唐の長安の青龍寺になぞられたお寺を作りたいと独鈷しょを投げるとここに落ちたという。  暗い夜になると霊火が浮かび航行安全に役立ったと錨を奉納した。 中国長安の青龍寺の真言宗7代恵果阿闍梨を祀ってある  
     
 7.岩本寺:行基が7つの寺を建てたのが始まりで、阿弥陀、薬師、観世音、地蔵、不動明王の5体の本尊。  本堂内陣の格天井には全国より公募した575枚の自由な色とりどりの絵がはめられています、特にマリリンモンローの絵は目を引く。  岩本寺から38番金剛福寺まで最長の89Kmある。  
       
 38.金剛福寺100Kmの最長丁場、大師が唐からの帰りに3個の鈷しょうを投げその一つ五鈷しょうが飛んできた。もう一つは高野山へ。
補陀落(ふだらく)信仰(海の向こうにある常世の国)、が盛んになると、一人で小舟を漕ぎ補陀落渡海が盛んになる。那智が有名))
 3面千手観音御宝前 足摺岬の先端にあり、岬全体が境内という(3万6千坪)広さは圧巻、
周辺には弘法大師の七不思議が伝わっています。
 
 

中浜万次郎の像。            足摺岬                              足摺観光ホテル

 39番延光寺から愛媛県40番観自在寺43番明石寺
 
 39.延光寺:高知最後の、ここだけが土佐湾から外れている、歩くと2日かかるが車では2時間、  かってはここから3kmの所の松尾峠が土佐藩の関所、へんろの西の出入り口であった。    
  菩提の道場伊予愛媛県40番観自在寺65番三角寺
宿毛の延光寺から屋k30km県境を越えると伊予の『菩提の道場』に入る。
 
40.観自在寺:807年平城天皇の勅願により弘法大師が開基した寺である。大師が本尊薬師如来を刻んだ、当時は七堂伽藍があった。  今は鉄筋コンクリート、西海町鹿島を基地とする宇和海中公園が浮かぶ海のお花畑。    昭和53年、十二支守り本尊として、千手観音菩薩(子年)、虚空蔵菩薩(丑・寅年)文殊菩薩(卯年)、普賢菩薩(辰・巳年)、勢至菩薩(午年)、大日如来(未・申年)、不動明王(酉年)、阿弥陀如来(戌・亥年)の八体の石像が彫刻されました。自分の干支の守り本尊にお水を掛けて、願いを込めることができます。
 
 41.龍光寺:、真珠の養殖が盛んな宇和海を過ぎて 鳥居は廃仏毀釈の影響である。 本尊は十一面観音と稲荷大明神  険しい山越えが続く土佐と打って変わり、のんびりした旅路となる。
     弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは大師が唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。
 42.佛木寺:牛を祀り    
 
 43.明石寺:天台宗は43,76,82,87番寺。本堂左側には熊野権現社がある。番外札所の十夜ケ橋、84Km離れて44番まで、  十夜橋:四国別格二十霊場、第8番十夜ケ橋  生きなやむ 浮き世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほう
17時30分 松山観光港から高速艇で宇品港へ    

四国遍路が終わると、また巡り、始まりに戻る。しかし、次回の巡礼を考えるとき、1から新たに繰り返すといったものではない。むしろ階層を深めていく。そして、もう一度廻ることで、感謝、理解、自己認識、そして最も重要な感謝がより深まるのだ。