源氏物語 紫式部ゆかりの地をめぐる2日間 
〜光る君へ大河ドラマ館と大津・京都〜

防長トラベル主催の今年の大河ドラマを訪ねてに参加した。4月2,3日は桜の満開であった。 

                                                         世界遺産平等院
 66代一条天皇(1011年〜1018年)の中宮定子(長男道隆の娘)が出家すると、道長は長女彰子も中宮、正妻とした。定子には清少納言、彰子には紫式部、和泉式部が女房として仕えた。定子は第3子を生むと死亡した。一条天皇亡き後、67代三条天皇(中宮は道長の次女妍子)は5年で死亡した。その後道長のが68代後一条天皇(中宮も道長の娘威子)に、第68代後朱雀天皇(道長の、中宮は道長の孫禎子)になった。3代の天皇の后の父となり前代未聞の地位を築いた。
 摂関政治の最盛期を迎えた道長は、1018年娘の威子が中宮となった日の宴で読んだ歌が『この世をば 我が世と思う 望月の 欠けたることも なしと思へば』。この半年後に糖尿病、うつ病、白内障、狭心症を患い道長は1027年死亡した。その後二人の男子には子供がいなく、藤原氏は外戚の地位を失ってゆくが、今上天皇まで藤原氏の血は繋がている。
宇治は『源氏物語 宇治十帳』の舞台であり、998年藤原道長の別荘であったのを、1052年子の頼道が寺院に改めたのが始まり。阿弥陀堂は華やかな摂関時代を忍ことができる唯一の建造物で『鳳凰堂』とも呼ばれている。
   宇治川の流れは速い  朝霧橋を背に、源氏物語絵巻「橋姫」をレリーフした屏風と、
橘の小島へ向かう小舟の匂宮と浮舟の像。

藤原頼通が平等院を創建したのは、1052年平安時代中期から末期にかけて人々に広まり始めた「末法思想」に端を発した。これまでに普及されてきた仏教は、現世での救済を求めるものでしたが、末法思想は「釈迦が入滅してから2,000年後は、釈迦の教えだけが残り、悟りも得られなくなる」といった考えです。平等院が創建された1052年(永承7年)は、まさに釈迦の入滅2,000年目と推定された年でした。 末法思想によって生まれたのが、来世に救済を求める「浄土思想」です。
   末法思想や浄土思想の考えを持っていた藤原頼通も、元々祀っていた「大日如来」から「阿弥陀如来」坐像を本尊にしようと、本堂を建立。それが今日も残る平等院鳳凰堂です。

 大日如来と阿弥陀如来の違いは、「救済の度合い」にあります。日本の仏教思想に於いて、大日如来は密教の本尊であり現世利益をもたらす仏。一方の阿弥陀如来は、死後に極楽浄土へ向かうための仏とされ「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土に行くことができると考えられたのです。
そのため藤原頼通は、父・藤原道長が作り上げた藤原氏の栄華が続くよう、また死後の救いを求めるために阿弥陀如来を安置しました。
                  宇治神社
 313年第15代仁徳天皇は即位すると、弟の菟道稚郎子命は兄に皇位を譲るべく自殺をしたのを弔ってこのお寺を創建した。
 文教の始祖として、学業成就・受験試験合格の神様であり、宇治の氏神様として古来より崇敬されている。
  宇治上神社
                       応神天皇と仁徳天皇、弟の菟道稚郎子命(うじの わきいらつこの みこと)を祀ってある。     屋根が美しい本殿       
 
  宇治市源氏物語ミュージアム 

源氏物語は1000年頃紫式部により書かれた、全編54帖のうち、41帖までは、光源氏を主人公に、華やかな宮廷での恋愛模様と、光源氏に徐々に忍び寄る人生の影を描いたものです。
最後の十帖は光源氏の息子と孫二人の男性、三人の姫君が織りなす、しっとりとした悲恋の物語です。その主要な舞台が宇治の地に設定されていることから『宇治十帖』と呼ばれている。
 エントランス  みすだれ:室内からは外が見えるが、外からは見えない。不思議  宮中を復元

 紫式部にとって仏縁の深い三井寺 
 667年天智天皇は近江に都を遷都したが、672年天智天皇が死亡すると、大友の皇子と大海人皇子が争う壬申の乱が勃発。壬申の乱で敗れた大友の皇子は父天智天皇を弔うためにお寺を建てた。天武天皇から『園城』という勅額を賜ったことが始まりとされている。勝利を収めた大海人皇子はふたたび飛鳥に遷都し、近江大津京は僅か5年で廃都となった。
紫式部が1014年に死亡すると、父為時は越後の守を辞任して、1016年に70才過ぎて三井寺に出家した。娘を忍ぶ日々を送ったと言われている。
 天台門宗の総本山:長等山円城寺  道長が奉納した弥勒菩薩が金堂に秘仏として納められている。  叔父の康延と異母兄弟の定遷(じょうせん)はこの寺の僧侶でした。
  源氏物語起筆の地石山寺 
747年聖武天皇の勅願により創建され、皇族貴族の篤い信仰を受け、平安時代には藤原家の庇護のもと、石山詣では一大ブームとなった。
紫式部は夫を亡くして悲しみの最中この寺を訪れ、1004年『源氏物語』を起筆したという。
 747年聖武天皇の勅願により創建された.運慶、湛慶作の仁王がある 『石山』の名前の元となった奇岩と 鎌倉時代の多宝塔  京都の清水寺、奈良の長谷寺と並ぶ三大観音として信仰されていた。
  光る君へびわ湖大津大河ドラマ館  
 ソメイヨシノ 石山寺の月見亭から見る瀬戸田川。紫式部がここに映る十五夜の月をめで、『須磨・明石』の構想を練ったのか?   源氏物語の恋をテーマに、恋するもののあわれ展 恋の決め手は美の色と香のセンスと恋の歌
 紫式部の部屋。机の上には紙が広げられてあり、硯もある。  王朝貴族の女装束をつけた人形が座っている。  両手に花?定子の女房清少納言と彰子の女房紫式部
  紫式部の邸宅跡 廬山寺 
天台宗、元は紫式部の邸宅があり、『源氏物語』の執筆の地だったとされている。物語にちなんだ桔梗の寺としても知られ、本堂前の『源氏の庭』には紫色の可憐な花が咲き誇る。
紫式部の曽祖父権中納言藤原兼輔が建てた邸宅であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘を産み、973〜1014〜19年46才?ほどで死去したと言われている。
紫式部は藤原香子と呼び、源氏物語、紫式部日記などは殆どこの地で執筆された。  
   すきものと 名にし立てれば みる人の折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ  遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思いけるかも

  紫式部もかよった縁結びの神 上賀茂神社 
紫式部が描かれた、二葉葵神紋を形どった縁結びの絵馬
677年第40代天武天皇が加茂神社を造営され第50代桓武天皇が遷都後山城の国の一の宮として歴代の天皇が奉賀された。
   紫式部も参拝したと伝わる、縁結びの社として今も女性に人気のある