青の魅力 ウズベキスタンの旅 2 

プハラ
プハラの黄金時代は、9世紀のサーマーン朝時代に始まる。イスラム王朝の庇護のもと、優秀な宗教者、科学者、神学生、そして商人なども各地からプハラに集まってきた。
またオアシスを結ぶ交易の十字路としても栄えたその繁栄も1220年のチンギスハーンの来襲にて廃虚と化した。しかし16世紀のシャイバニ朝の時代になって、プハラは再び蘇った。
シルクロードの面影を色濃く残すブハラの街並みはこの頃完成し、その後今日までほとんど変化していない。

アラーン 
カラーン・ミナレト(大きい尖塔)1127年に建設された。高さ46m
砂漠を超えて来るキャラバンにとっては大切な道しるべであった。
18,19世紀には死刑場となり、袋に詰めて死刑囚を上から投げ落とした。
ミル・アラブ・メドレセ1536年に建てられた巨大なアーチの両脇に
2つの青いドームを持つ神学校。
ナデイール・デイヴィアンベキ・メドレセ
1622年に建てられた神学校太陽の真ん中に顔が描かれている。サマルカンドのシェルドル・メドレセと同じく偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反する絵である。
中庭の学生の部屋は現在土産物店になっている。
回廊は208本の柱で支えられいる。鶴瓶になったようだ、モテモテ 教育年限は7年
ウズベキスタン絣は、ツヤツヤした絹の質感、色の鮮やかさ、大胆な模様が特徴です。5世紀にはホータンから絹が伝わり、
7世紀頃に中国やインドから絣の技術が伝わったそうです。
露店に並べられてある

サイフッロー氏は『地球の歩き方』にも記載があり、ナイフや鶴のハサミが有名
ステンレスの包丁を購入したら、包丁に名前を記入してくれた。
また日本刀を持って一緒に写真をと。次回店に行ったら飾られているかも。
金銀、レアルメタル、石油などの資源が豊かな国である
漆塗の手書きの絵を描いた名刺入れを購入した 昼食は地元レストランでロシア風の牛や羊の肉の串焼き(シャシリク):硬くて食べれない
中央アジアの主食であるナンの工場を見学した
アブドウールアジス・ハン・メドレセの門。1600年に建てられた 200年の間に建築様式が変化している。内装の色彩も豊かになっている。
イスマイール・サーマーニ廟
892〜943年にかけて造られたイスラム建築の初期の霊廟で、中央アジアに存在する最古の建築。イスマイール・サーマーニが父親のために建てた霊廟。
モンゴル来襲で町が破壊された時、殆どが地中に埋もれており周りが墓地だったために気が付なかった。1925年に発掘された。
ボラハウズ・モスク 1712年に建てられた。
前面に彫刻がされた20本のクルミの木の柱が並んでいる。
アルク城
このあたりが古代プハラ発祥の地で、2000年以上さかのぼると言われている。7世紀にアラブと戦い、13世紀にモンゴルと戦ったが、多くの人が死亡した 城内には1920年ソ連軍によって破壊された場所が残っていた。
裏町のレストランで。食事中に停電!真っ暗になった。 ボロフ: ウズベキスタン風の炊き込みご飯

 ヒ ヴィアへ 
キジルクム砂漠を480Km、約8時間余りのバスの旅でヒヴェアに着く。

舗装のない道 一部は舗装されている。韓国の援助だそうです。 砂嵐。今日は天候がすぐれない。気温は16度。明日は日中36度の予想
途中のドライブインでの昼食
シャシリクとランチボックス
またまた硬い肉




砂漠と小さな木々が生えている地帯もあるキジルクム砂漠

ここヒヴィアは首都タシケントから1000km西に在り、古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の入り口のオアシスとして栄えた。
年間300日は雲が1つもないという過酷な土地である。外敵を防ぐために外壁(周囲が6Km)と内壁の2重の城壁で守られている。
内城には、20のモスクと6基のミナレットを初め数々の遺跡が残されている。1990年世界遺産に登録された。
イチャンテンカラ(内城)は高さ8〜10m、厚さ6m、長さ2250mの城壁に囲まれた小さな町である。
宿泊したホテル”マリカ ヒヴィワ”は城壁のすぐ外にある。 朝6時ホテルの前から気球が飛び立って行った 高さ8〜10m、厚さ6m、長さ2250mの城壁に囲まれている。
西門から朝の散歩に出かけた。 まだ誰も歩いていない。 シルクロードの地図。
昨日購入したウズベキスタン絣を羽織として着用した。ハンになる。 ヒヴィアのシンボルのカルタ・ミノル・ミナレットとメインストリート
ムハマド・アミン・ハン・メドレセ:1852年に完成した中央アジア
最大の神学校で最盛期には99人の寄宿生がいたという。
カルタ・ミノル・ミナレット
美しい未完成のミナレット。1852年着工したが、工事は中断されたまま現在に至ている。
高さ109mのミナレットを建てて400km離れたプラハの町まで見張ろうと建設を始めたが、1855年ペルシャとの戦いでムハマド・ハンが死んだ為に中断された。
基礎の直径は14.2mある。



今はホテルになっているが、電気設備や、下水道設備は、日本人には向かない
ジュマ・モスク・10世紀に建てられた。3m間隔で213本の柱がある。
神秘的な薄暗がりの中に彫刻が施された沢山の柱が、独特の雰囲気
この道具で野菜や果物がこのように切っているのを見て100円で買ったが、
出来ない
このようにレンガがの歩道は珍しい。
クフナ・アルク
17世紀に建てられた古い宮殿
モスクやハーレム、さらに造幣局、火薬工場、などがあった。
絹の紙幣が製造されたこともあった

王の間
高さ8〜10m、厚さ6m、長さ2250mの城壁   内城内部を見渡す
タシュ・ハウリ宮殿1838年に建てられた宮殿。ヒヴィアの中で最も豪華なタイルや装飾インテリアで飾られている。
ハンの執務室と4人の正妻の部屋 ハンの執務室、柱に刻まれた見事な浮彫 2階建てのハーレム163もの部屋がある。
ヒヴィワで一番高いミナレット45m 露天商
パフラヴァン・マフムド廟 ヒヴァでも一際美しく輝いている青い霊廟です。
ここでもモテモテの写真撮影。肩まで組まれて、親日である 尊敬されていた大臣、詩人でもあり哲学者でもあったパフラヴワン・マフムド(1247〜1326)の墓が中心に据えられ、

22時55分ウルゲンチ空港発
タシケント0時20分(日本時間4時20分)着
ホテルには1時30分に到着!
きつい。眠い
夕食は香草デイルを練りこんだ麺料理のシヴィット・オシ。夏の風物詩 ウルゲンチ空港への道はイルミネーションで飾られている


お土産に買った絵画     ペルシャの市場

  首都のタシケント 
人口279万人、地下鉄が走り、真っすぐに伸びる広い道路に木々が植えられ、ビルが立ち並ぶシルクロードの印象とは遠い近代的都市である。
オアシスの都市として2000年前から栄えてきた。シルクロードの中心地として最も栄えたのは11世紀ごろである。
しかしモンゴル軍に破壊された後、テイムール帝国になって町は復興し、全長25kmの城壁に囲まれた人口10万の町に成長した。
1865年帝政ロシアの支配が始まると、ロシア人の入植が続き、古い町並みは壊され区画整理が行われた。
1966年4月26日に直下型地震に襲われて、町はほとんど壊滅した。
”人類のるつぼ”という言葉がこれほどふさわしい国はない。金髪の長身のロシア人、小さな帽子を頭に乗せたウズベキスタン人、日本人そっくりな朝鮮系の人、丸顔で赤ら顔のズングリ型のモンゴル人もいる。
宿泊したハイアットリージェンシータシケントホテル、奇麗です 部屋からの眺め。道にはごみ一つ落ちていない
国会議事堂 ナヴィオイ・オペラ・バレー劇場:『1945年〜1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が建設に参加し、その完成に貢献した。』とプレートに記載されてある。1500人収容の劇場
『日本人が建てたこの劇場は地震でもビクともしなかった』と言われている。
日本人墓地:第2次世界大戦後、ソ連に抑留された日本人がこの地に連行されて、強制労働のためにこの地で没した79名の日本人が眠る墓地。記念碑には名前を刻んたプレートがある。ウズベキスタン政府が整備した。そのお礼に日本製のCPを13か所の日本人墓地のある学校に寄付をし、また27種類1300本の桜の苗木と、梅と桃の苗木を100本合計1400本を寄贈して植えた。2002年麻生太郎友好議員連盟会長を初め遺族の方々が参列して除幕式が行われた。、墓守のフオジルオタさんは、毎日8時にほうきでお墓の周りを掃き清めて、水をやってくれていました。日本の高野山から持参した線香を備え、参加者に1ドルづつの寄付をお願いして私が代表してお礼を言いました。
詳細は山中恭子著『ウズベキスタンの桜』を読んでください。
バラク・ハン・メドレセ 16世紀に建てられた神学校。入り口の美しいモザイク模様      学生余蘊部屋はお土産物やになっている。
リシタン
1000年以上前から地元の土を使った陶器作りが盛んに行われてきた。リシタンは天然の釉薬を使った鮮やかな青と細かい模様が特徴です。
タシケントのボストイチヌイ空港を20時(日本時間0時)50分 に離陸し、福岡に7時5分に到着した。