青の魅力 ウズベキスタンの旅 1 |
2018年4月20日〜8日間ウズベキスタン航空直行チャーター便で行きました。ビジネスクラスはワールド航空サービスは3席しかなく、JTBは5席あったので、JTBで行きました。エコノミー254千円がビジネスでは追加が30万円であった。福岡空港13時離陸17時20分(日本時間ー4時間)サマルカンド空港に着陸した。サマルカンド(レギスタンホテル)2泊、プハラ(グランドホテル)2泊、ヒワ(マルカホテル)1泊、タケシント(ハリアットリーゼンシー)に1泊した。世界中でこれほど親日的な国はない。その理由はソビエト連邦に属していたが、崩壊とともに1991年に独立した。日本は短期間で高度成長を遂げ、近代国家に発展したが、日本古来の良さを維持している。日本人の勤勉さと几帳面さ、教養の高さ、日本文化の維持(剣道,華道、茶道、柔道、和服、日本食、仏教など)をしつつ、治安の良さ、進学率の高さなど日本を高く評価してお手本として国造りをしている。ウズベキスタンの人々は日本人と解ると写真撮影や話しかけて来ました。手先が器用で刃物や漆工芸品、絵画など細かい仕事を丁寧にしていた。 ウズベキスタンは、人口3200万人、面積は日本の1.2倍。宗教はイスラムスーニ派が75%。 |
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サマルカンド 東洋の真珠、イスラム世界の宝石 シルクロードの中心都市と言われている BC2000年頃からこの地に人々が住んでいた。サマルカンドの前身のマラカンダの町はソグト人によってアフラシャブの丘に作られた。商才と工芸技術に長けたソグト人は、様々な王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって町を築き上げてきた。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の遠征軍が、サマルカンドの前身のマラカンダの町を絶賛した。しかし1220年モンゴル軍の進軍で、町の人口の3/4の人が殺され、町は破滅寸前まで破壊され、無人の荒れ地と化した。 そのサマルカンドを蘇らせたのが、テイムールであった。テイムールはイスラム王朝(1370〜1507年)を建国しその最盛期には、東トルキスタン、南東はインダス川、南西はシリア、南東はインダス川まで及んだ。そしてイスラム世界に名だたる都市に復興させた。1404年中国の新疆ウルムチへ進軍中に、発病して死亡した。
サマルカンドはチムールの勇敢な軍事行動とウルグベクの非凡な才能にて作られた。 ラフモノフ大統領は「世界最悪の独裁者」の一人に選ばれていたが、2007年から2012年まで毎年8%以上のGDP成長率を達成するなど、優れた指導者としての一面を見せている。また親日的であった。 親日的なのは中山恭子著『ウズベキスタンの桜』に詳しく記載されている。
ウルグベク天文台
アフラシャブ博物館 :13世紀までの都市遺跡
シャービズインダ廟群 アフラシャブの丘の南麓にサマルカンド有数の聖地がある。
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サマルカンド・ナン(中央アジアの主食) |
テイムール | 14世紀末のテイムール帝国(緑色の部分) | |
ムカルナス:(鍾乳石の丸天井を意味するアラビア語で、10世紀中ごろイラン北西部で発展した建築上の装飾である。窪みのような要素が層を成して並んだ立体的な建築装飾である。ムカルナスは、単純な幾何学的要素を数種類繰り返したものである。)様式 | 黒い石はテイムールの墓石 |
チンギス・ハーンの来襲以後、アフラシャブの丘から移動して、商業の中心地となったサマルカンドは、東西の文化の交差点となったレギスタン(砂地の意味)広場は、公共の広場として様々な出来事の舞台となった。3つのメドレセが建ち並び、鮮やかなサマルカンドブルーのタイル装飾や、きらびやかな金色の天井など、細部にこだわってみると精巧な造りに驚かされる。 | ||||
正面がテイラカリ・メドレセ。 左側がウルグベク・メドレセ。 |
右側がシェルドル・メドレセ | ウルグベク・メドレセ:1420年に建てられた神学校。 ウルグベクは自身が天文学者であったように、学芸を振興した。当時ここには100名以上の学生が寄宿し、イスラムの神学を初め数学や哲学などを学んだ。2階に学生たちは住み、四隅はドーム天井の講義室になっている。 |
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正面のテイラカリ・メドレセ 1660年に建てられた神学校。 |
テイラカリとは金箔されたという意味。 修復には3Kgの金が使われたと言われている。 礼拝堂は息をのむほどの美しさだ。 ミフラーブ(メッカの方向を示す壁画の窪み)と壁面には、星と植物、アラビア文字をモチーフした鮮やかな模様で飾られて、まばゆく輝いている。 |
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シェルドル・メドレセ:1636年に完成した。イスラムは偶像崇拝を否定しているが、入り口には、小鹿を追うライオンが人面を帯びた日輪を背に描かれている | シルクロードらしい民族楽器の店。CDを購入した。 | 気球が我々を歓迎するためにレセプション会場上空に現れた | ||
ウズベキスタン観光省によるチャーター便4社200名余りだけの歓迎会がメドレッセの中庭でが行われた。【サマルカンドの夕べ。第一部民族音楽と・舞踊、第二部3Dプロジェクションマッピングショー】 一般旅行者、現地人は柵の外で、立ち見でした。 |
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ライトアップされた幻想的なレギスタン広場の眺めに酔いしれた。次々と色彩が変わる。 | ||||
サマルカンドから130Km、バスで2時間30分 シャフリサ-ブスへ | |
ブドウ畑 | 家畜の放牧 |
シャフリサ-ブス 7世紀には玄奘三蔵法師もインドへの途上に立ち寄った記録がある。テイムールは1336年この地で生まれ、広大な帝国を築いた後も、彼はこの故郷を忘れず、壮大な建築群を次々と建てた。 16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによってほとんどの建物が破壊されてしまった。 |
かっては城壁に囲まれた周囲が2Km×1Kmほどの長方形の 真中を南北に通りが貫いていた。 |
アフガニスタンとの国境のビンドウークシュ山脈(最高峰は7690m)が雪をいだいている。 | 壊れる前は50m以上の高さがあったと言われるが、今では38m | ||
アク・サライとは『白い宮殿』の意味だが、実際は青と金色のタイルで装飾された宮殿。 | 左:日本人はテイムールの像のそばに行けるが、 上:国民はロープの外からの見物である。何と言うおもてなし |
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アク・サライ宮殿:1380年着工され、テイムールの死後の1405年まで建築が続けられた。壊れる前は50mの高さ、現在は38m | ||||
【緑の町】という町の名は、当時のオアシス都市としての豊かさを物語っている。 | ||||
ドルッテイロヴァット建築群 | ウルグベクが自分の子孫のために1435〜1437年に建てた。 | 1374年チムールが建てたテイムールの父の墓 | ||
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親日的だ! 小学生と | 陸軍の徴兵と | 麺入りスープと羊肉の煮込み。肉は硬くて食べられない | ||
ブハラへ275Km、バスで5時間 風が強い。 油田地帯 石油の精製工場(石油は自給している) |
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