秋天絶景 長江の船旅
株)ワールド航空サービスが50周年記念としてヴィクトリア・ソフィア号を借り切って上海から重慶への旅がありましたので、参加しました。珍しく雨に会いました。でも曇天と小雨の中楽しい旅が出来ました。添乗員の九州支店山崎大輔さんには大変お世話になりました。
 福岡空港から中国東方航空にて上海へ1時間25分のフライト予定だったが1時間10分で着陸した。福岡~羽田(1時間30分を要する。)より近い。ビジネスは18万円追加とのことで、エコノミーで我慢した。

豫園商域へ:ここは元、明、清の時代から上海の政治経済の中心地であった。
南翔饅頭点:1900年創業の小龍包を味わう。 龍は皇帝以外の使用が禁止されていたために、ここでは5本ではなく
3本足の龍が方々に飾られている。
豫園とは”楽しい園”という意味だそうです。明の時代1559年から18年の歳月をかけて作られた庭園です。
玉玲瓏の岩:太湖から運んできた岩で、穴が沢山開いているのが特徴 三穂堂:豊作を意味する堂です。釘が1本も使われていない。 屋外舞台です。屋根の反りが綺麗です。


長江(揚子江は下流部分を言う)はチベット高原を源とし、成都、重慶、宜昌、岳陽、武漢、南京、上海市を通り、全長6300Kmを流れ東シナ海へ注ぐ。
中国一、世界第4(アマゾン、ナイル、ミシシッピーに次ぐ)の大河である。流域の人口は4億5千万人と言われている。
長江流域は、春秋戦国時代には上流は蜀、中流は楚、下流は呉、越などの国家が成立し黄河流域の国家と争っていた。戦国時代になると上流は秦、中下流は楚が制したが、紀元前223年秦が楚を滅ぼし天下を統一した。
後漢王朝が滅びると223年建業に都した呉が建国されると魏、呉、蜀の三国時代になる。
上海の租界時代の外灘から対岸の未来都市のような景色を見る。
492mの上海環球金融中心
上海呉松港からヴィクトリア・ソフィア号に乗船し、8泊9日の重慶までの長江(揚子江)約2000Kmの船旅の始まりです。全長89m、4587トン今回の乗客は110名。札幌、仙台から福岡までのワールド航空のお客のみです。 海ではありません。揚子江です。川幅はなんと30Kmとも言われている
長江大橋:2009年開通し、全長16.5Kmもあります。  瀬戸大橋は全長が13.Km。瀬戸内海より長江は広い!!驚き! 長江の落日。綺麗だ!!船は揚州に向けて西へ登って行きます。
夕食前にウエルカムパーテイ。船長とシャンパンでカンペイ 可愛いウエイトレス 中国の伝統音楽の夕べを楽しんだ。なんと荒城の月、故郷なども、

桂先生による書道講座
記念に【恕】を書いてもらいました。これは、論語第15編24に
子貢問曰 有一言而 可以終身行之者乎
           子曰 其恕乎 己所不欲 勿施於人  
とあります。中国では文化大革命後論語は禁止されているそうです。
日本人が論語を知っているので驚いていました。
 何か漢詩を書きましょうかと言われたので李白の
早(つとに)発白帝城をお願いしました。

  朝辞白帝彩雲間
  千里江陵一日還
  両岸猿声啼不住  軽舟已過万重山
  
妻は、娘の名前を書いてもらいました。


朝は6時30分からもモーニングテイー。黄先生による6時40分から40分間の太極拳。8日間で20種類を習ったが、理解のほどは、、、
     
南京は客船着岸禁止の為に、上陸できず。8時30分ヴィクトリア・ソフィア号は江蘇省の古都揚州に着きました。                      
京杭運河(隋の文帝と煬帝が建設し610年に完成した北京と杭州を結ぶ2500Kmにおよぶ大運河)と長江との交わる交通の要所としての揚州は隋、唐の時代には全国有数の都市であった。李白,白居易なども訪れている。
        鑑真和尚ゆかりの大明寺
 鑑真和尚は揚州で生まれ、20歳で唐の都 長安にて律宗・天台宗を学んだ。ここ大明寺の住職であった鑑真和尚は戒律を日本へ伝えるように懇願された。玄宗皇帝は鑑真和尚の才能を惜しんで渡航を許可しなかった。船は難破し、渡航は失敗し失明した。753年遣唐使の副使の大伴古麻呂が密かに鑑真を乗船させ、6度目の航海の末に薩摩の坊津にたどり着き、東大寺に戒壇を開き戒律を授けた。後に唐招提寺を本拠として活動をした。
清時代に建てられた本堂に相当する大雄宝殿、線香の煙が絶えない。  釈迦坐像
 栖霊塔
隋の時代に建てられた九層の塔と言われているが、戦火で焼1996年に再建された
鑑真記念館唐招提寺のレプリカ。日本の協力で建てられた。 唐招提寺の鑑真和尚のレプリカである。
乾隆帝が愛した痩西(そうせい)湖:杭州の西湖を似せて作ったが西湖よりの痩せていたので痩西湖と命名したとか。
24橋ー石橋の太鼓橋。長さが24m、幅2.4m、階段は24段 五亭橋は清の乾隆帝が巡幸に際して建てられたもの。
マルコポーロ像 清代を再現した東関街の入り口
山の無い揚州は守り難く、戦争の度に焼失し運河と門が要塞であった
明・清の時代の面影を残す町並みを再現。した全長1.12Kmの通り。
10元で34%のお酒を買った。、
揚州博物館
 晋が分裂した後300年ぶりに天下を統一した隋ではあったが、581年~618年の僅か2代で滅亡した。揚州は隋の第2代煬帝が暗殺された地である。煬帝は北京と杭州を結ぶ大運河を作ったり、高句麗遠征を試み失敗して、国民からは暴君と言われている。遣隋使は600年~618年の18年間に5回以上派遣されている。隋書東夷伝によると、第2回の遣唐使は607年小野妹子が大使として国書をもって派遣されたと、『日の出国の天子 日の没する国の天子に書を奉げる。恙無きや』と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、『蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ』と命じたと記載されてある。
揚州博物館: 煬帝の墓、歯も発掘された。 元代の白龍紋梅瓶は中国でも3点だけで、最大である。
ポロ模様のある道鏡は世界でも二面だけ。 唐代の石仏像

貴池へ向けて14時30分出港。翌朝9時貴池に到着する。
貴池港に着岸、小雨の中黄山へ バスで1時間30分そしてロープウエイにて北海景区の山頂へ 昼食は五つ星の西海飯店で、
山頂とは思いないほどの設備と料理を堪能しました。
中国では『黄山見ずして山を見ることなかれ』と言われるほど美しい。
雲の中に横たわる峰々、奇岩,奇松など
18時30分小雨の降る中船に帰った。
18時30分船は武漢へ向けて出港

船内では数々のイベントが行われた。中国語講座、指圧と漢方の講座、。餃子作り講座等がありました
中国伝統絵画の講座:御祖父さんが溥儀の腹違いの兄弟と言う血筋の程先生
西洋画の様式も取り入れた中国画の第一任者で色鮮やかながらも水墨画のような風情の絵です。左の絵を購入しました
中国茶講義は、余先生による茶、紅茶,ウーロン茶の歴史と煎れ方。 蔡さんによる三国志の講義。魏,呉、蜀の3国の覇権争い、晋が中国を統一するまでの3世紀の記録を陳寿が記載した歴史書。239年邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使を贈ったことが記載されている。また邪馬台国への経路と生活様式が記載されている。当時の邪馬台国の記録はこれのみである。
 よく読まれている小説で15世紀に書かれた三国志演義とは違う。
中国国家級民族音楽の調べ
二胡、揚琴、琵琶の3楽器、

ヴィクトリア・ソフィア号の乗組員による中国舞踊があり、先ほどのウエイトレスや受付嬢などが心温まる衣装と踊りで楽しませてくれた。
内画瓶アート
22時30分武漢に到着
武漢の夜景:高層ビルが建っているが、明かりがついていない建物が多い。 武漢長江大橋は長さ1156m、橋は2層式で上は自動車が、下は複線の鉄道が、丁度走っているのが写せました。。
  午前6時船は赤壁の古戦場を通過した。
  陸より離れているために『赤壁』が読み取れない。

陳寿(233~)の書いた三国志によれば、
 208年曹操と孫権、劉備の連合軍が戦った魏,呉、蜀の天下分け目の戦いであった。魏の曹操率いる20数万の軍勢は南下し、江陵より長江に沿って東に向かいました。これに対して劉備は諸葛孔明を使いして孫権と同盟を結び、呉の孫権は蜀の劉備の5万の連合軍と共に長江を西に向かっていた。ここ赤壁で川を挟んで対峙していた。孫権、劉備連合軍は東南の風を利用して火を灯した松明を持ち、曹操軍を火攻めで攻撃した。曹操軍の船は一機に燃え尽き、その燃える炎で岸壁が真っ赤に染まったことから『赤壁』と名ずけられたと言う。孫権,劉備軍は攻撃を続けたために曹操は残りの部下を連れて江陵より退却した。
 220年曹操が死してその子曹丕が魏を建国(都は洛陽)、221年劉備が蜀を建国(都を成都)、222年孫権が呉を建国(都を南京)し、三国時代となる。
 魏から禅譲によって晋が建国され、280年晋が呉を滅ぼし、中国を統一する。
13時ヴィクトリア・ソフィア号は岳陽市に到着した。
三国志の呉の将軍である周瑜(175~210)の奥様小喬の墓
小喬は199年12月、姉の大橋と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、周瑜の妻妾の一人に加えられた。二喬共に絶世の美女で、江東の二喬と呼ばれた。赤壁の戦いで諸葛孔明は曹操が二喬を奪おうとしていることを周瑜にほのめかし、これを激怒させて開戦を決意させた。
登岳陽楼 杜甫
昔聞洞庭水

今登岳陽楼
呉楚東南坼
乾坤日夜浮
親朋無一字
老病有孤舟

岳陽楼に登
岳陽楼から見る洞庭湖。北には長江に繋がっている。杜甫は『昔から洞庭湖の素晴らしい景色を話には聞いていたが』と謳っているがこれは汚水の湖ではないか?『』
1665年第6回朝鮮通信使(扶桑日記、正使趙 著)によれば、『閭閻氏は鞆の浦の絶景を幾千余家に向かって、”岳陽楼、洞庭湖の絶景も及ばず”と大声で吹聴した。自分は未だ此の処を見てはいないが、漢詩などで知る限り、いずれが上下甲乙つけ難い』と絶賛している。
操舵室の見学。 操舵室から見る前方 大量のごみと垂れ流しの汚物によるドブ川である。
また空は、PM2.5を初め大気汚染が酷い。
水も空も灰色である。

スタッフによる少数民族のショー
水量が少ないために一方通行となったので3時間ばかり停止を命じられた。遅れたので宜昌で下船してバスで三峡ダムへ向かうことになった。
三峡ダムは、1993年着工し、2009年完成した。水力発電2250KWは東京電力の販売電気量よりも多い。
ダムの模型で説明を聞く 展望台からの三峡ダムの全景 1万トンの船が航行できるようになった。
ダムの堤防にて。ダムの通常水位は175m、長さは570Kmにおよぶ ライトを付けて夜中に三峡ダムへ向かうヴィクトリア・ソフィア号
午前零時から3時30分に水門を通過し終えました。
    8時30分西陵峡に接岸し、中型船に乗り換えて神農渓へ。
 140万人が強制移住をさせられ、2020年までにさらに230万人が退去予定で、住宅建築が急ピッチで行われている。このような急な山の斜面に高層ビルが建てられているが灯がついていない。移転の保証もなく、農地もなく、地すべりやがけ崩れが頻回に生じ、また汚水のため池が現状である。
小型船に乗り換えて2時間の神農渓の観光へ 棺桶が断崖の窪みに
美しい景色の中
川べりにあった住居は山の上に近代的なアパートへ強制移転
魚は捕れなくなり、農地はなくなりどうして生活するのであろうか
ヴィクトリア・ソフィア号に戻り、三峡(西陵峡66Km、巫峡44Km、くどう峡8Kmが連続して続く)へ
巫峡。断崖が44Km続く

石炭の出荷
くとう峡 10元紙幣の裏の図柄はここを描いている。
16時に船は白帝城に着いた
蜀の王、劉備の像       219年に部下の関羽が呉を攻撃し捕虜となり処刑された。222年劉備は関羽の仇討ちの為に呉を攻めるも大敗し白帝城に逃れ、223年ここ白帝城で死亡した。
江沢民の書 周恩来の書
劉備は関羽,張飛、諸葛孔明らを部下として蜀の国を歴史上に残した。
特に三国志演義では主人公になっている。
高校時代に習った早発白帝城 李白が思い出される。
朝辞白帝彩雲間  千里江陵一日還 両岸猿声啼不住  軽舟已過万重山 

9時豊都に着く。
ここにも強制退去者の新しい町が出来ている。でも住む人が居ない。 電気カートで閻魔大王が住む鬼城へ
閻魔大王
船長とシャンペンで乾杯”
船長と支配人と共に乾杯 紹興酒『会稽山』
会稽の恥とは、敗戦の恥辱。中国の春秋時代、呉王夫差(ふさ)と交戦した越王勾銭(こうせん)は会稽山で包囲されて敗れた。そこで屈辱的な講和を結んだ恥をいう。また、この恥辱を忘れず、苦心を重ねた末、勾銭は夫差を破ったが、これを「会稽の恥を雪ぐ(すすぐ)」という。臥薪嘗胆
国家級料理人番先生による、菊の花のように盛り付けた魚料理と比翼の鳥の飴細工が出されました。
飴細工はもしかして質問をしました。『白居易の長恨歌の中の、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛の秘め事の場面、
在天願作比翼鳥   在地願爲連理枝』から製作したのでしょうかと尋ねたら、喜んでくれました。
2人は『私たちが天界へ召されたら、羽が繋がった二匹の鳥になりましょう。また天界から地上へ戻されたら、枝がくっついた二本の木になりましょう。私たちは、今も、次の世も、その次の世も、夫婦であろう』と誓った、有名な漢詩
クルーショウ
獅子舞
川劇の変面:日本の二十面相顔負けである。

重慶
ヴィクトリア・ソフィア号は上海から2422Km、八泊九日の船旅を終え、重慶に着岸、下船。
重慶はもとは四川省であったが、1997年直轄市となった。三峡ダム建設後は1万トンの船も重慶まで航行できるようになった。日中戦時中には蒋介石率いる国民党政府の臨時首都が置かれた。
重慶は人口2850万人で面積は北海道と同じ 中国の伝統音楽で見送ってくれた。 強制疎開者のための新築のアパート群が聳える。
人民大礼場 その内部、重慶最大の劇場
明,清時代の面影を残す磁器口へ。四川料理は唐辛子が多く辛かった

重慶のタクシーは黄色の色で、スズキの自動車に限る。
解放碑
重慶の夜景

飛行機で上海経由で福岡へ帰った