地中海クルーズの旅

 クルーズプラネット社の地中海クルーズ10日間の旅に参加しました。クルーズ船内でのチップや飲み物代などで653$と飛行機ビジネスへの追加が1人40万円が必要であった。気候は日本とほとんど同じでした。
                                  
 エミレーツ航空は関西国際空港を23時40分離陸し、10時間30分の飛行にて5時10分(時差5時間)ドバイ国際空港へ着陸した。ラウンジで休憩後、8時15分エミレーツ航空は離陸し、7時間の飛行でバルセロナ13時25分(日本との時差7時間)に到着した。


左広い綺麗な空港。
 右広く々としておしゃれなドバイのエミレーツ航空のラウンジ。

 
この飛行機ダグラスA380は2階席後方にはラウンジがある。
 アラブ首長国連邦(UAE)のドバイをベースに1985年に2機の飛行機(ボーイング737とエアバスA300)で就航を開始した。当初は中古のボーイング747などで中東域内とヨーロッパ路線を運航していたが、その後世界最大の旅客機エアバスA380等の新型機の積極的な導入と新規路線の開設を進めた。2011年現在、日本(東京、大阪)、ヨハネスブルグ、サンパウロなどを含む全ての大陸の都市に就航している数少ない航空会社の一つである。エミレーツは230を超える機体を所有し、現在、世界80か国以上、150を超える目的地に運航しており、ネットワークは拡大を続けています。毎週1,500を超えるエミレーツ便が、ドバイから6大陸の各目的地へと出発しています。
 エミレーツ航空のスチュアーデスさんの制服は、赤の帽子にベージュのスーツに白のスカーフがエキゾチックに見える。初めて乗ったA380の2階席
ビジネスはベットになるので、年寄りには楽だ。
8日間乗船するノルウエージャン・エビック号:15万5千トン全長329m、幅40m乗客4100名、乗務員1700名、航海速度24ノット バルセロナ港を18時出港した。
生演奏はラテン系が多い。期待したイタリア民謡はない 操舵室の見学 着物でデイナー
15階の展望からの眺め        6階の吹き抜けのアトリウム

ナポリ『ナポリを見て死ね』という名言が残されうるほど、小高い丘に建てられた街並み、青い空、紺碧の海、雄大なベスビオ火山を望む風景は素晴らしい。
35時間かかり第3日目の午前6時
ナポリの東9Kmにあるヴェスヴィオ山を眺める。日本ではナポリ民謡と思われている『フニクリフニクラ』は1880年に山麓から火口まで登山電車が開通した記念に作られてコマーシャルソングだそうだ。1944年の噴火で破壊された
午前7時ナポリ(人口は96万人)入港

誰(NHK?)が作ったか『虎のパンツ』の替え歌も日本では有名である。
ナポリ港に着岸したノルウエージャン・エビック号
王宮が港の上に聳えている。
17世紀に建てられ、18世紀にナポリ王になったカルロス7世が大改築をした
11世紀にノルマン人がナポリを支配し、この城の基礎の中に卵を埋め、「卵が割れる時、城はおろか、ナポリにまで危機が迫るだろう」と呪文をかけたと言われており、卵城の名前の由来となった。正式名称はカステル・デローヴォ。かつては牢獄として使用していた歴史もある 市庁舎前の広場
近くにサンタルチア通りがある。サンタルチア
この付近がポンペイの遺跡:
紀元前にはブドウ酒の輸出港として栄えていた古代都市であったが、78年8月24,25日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、火災流により一瞬にして町が地中に埋もれ壊滅した。
ポジターノ展望台から   世界で最も美しい海岸線のひとつと称されるアマルフィー海岸とリゾート地ソレント
アマルフィ海岸はナポリから南東約37Kmに位置している。ソレント半島の南海岸をさす、30Kmにも及ぶ海岸線には斜面に張り付くように小さな町が点在している。降り注ぐ太陽と白い町並みがまぶしい高級リゾート地である。
カンツォーネ (Canzone) は、イタリア語では単に歌を指すが、日本国内ではイタリアの大衆歌曲特に民謡と呼ばれることもあるが、適当ではない。帰れソレントヘ
道端でオレンジジュースを1ユーロ―で買って飲んだ。 ポジターノ展望台からの街並みです。 岩山をくり抜いたお土産や
アマルフィは、10-11世紀に海洋都市国家として栄えた都市で、ナポリの南東約37kmに位置している。町の中心には千年の歴史をほこる大聖堂、アマルフィ大聖堂がある。それを取り囲むように地中海都市特有の坂道と狭い路地が複雑に入り組んで、まるで迷宮のようである。人々は中世から変わらぬ生活を続け、レモンを畑で育て、坂の下まで人の手と足で運ばれる。
1997年ユネスコの世界遺産に登録された。町の中心には、アマルフィ大聖堂がある。外壁はアマジョルカ焼のタイルで装飾されている                        地下には、地下聖堂がある。
マジョルカ焼きのタイルのお店 アマルフィー海岸:風は強く寒いのに甲羅干しをしている
オリーブオイルの店 ピザ屋の店先 海鮮スパテイ。
「ナポリタン」は日本生まれだそうですし、ケチャップはアメリカ生まれです。間違って理解していた。

ナポリからローマ
ナポリ港を19時出港し、夕日が綺麗に見られた。 午前6時チビタベッキア港に入港した。ここはローマから西北西に約59kmの距離にある。
また1615年には慶長遣欧使節団の支倉常長らがここチヴィタヴェッキアに上陸した。
ローマまで1.5時間のドライブ。田園が続く フォロロマーノ:2000年の時を超えた遺跡が残る。
コロセウム 西暦80年に建設された闘技場。5万人が収容で来たという。 写真を撮っていると突然見知らぬ女性が寄ってきた。絣の着物に野袴で

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
記念堂
1975年のスペイン階段。観光客がいない。 スペイン広場:昔見たローマの休日は、ある夜こっそりと飛び出した小国のアン王女(当時24歳のオードリヘップバーン)がこの階段に腰を掛けてジェラートを食べていると新聞記者が登場する。 イタリアの有名ブランドが集中する買い物エリア
GUCCI本店もある
肩越しにコインを投げいれると願いがかなうと言う。
1975年撮影と比べ人の多いこと。若いでしょう。
トレビの泉1453年に再建された。

チビタベッキアを19時に出港して、朝7時リボルノに入港した。ピサへの海の玄関口。フィレンツエへは1時間弱のバスの旅
地中海の夕日 7時リボルノ港に入港する。 建築史上最高峰の美しい大聖堂
天国の門(レプリカ) 天井フレスコ画:最後の審判が描かれている ラテン十字の形をした聖堂内部
ダンテの神曲:1465年作。右手に当時のドーモが描かれ、外壁の大理石の化粧版は施されていない。。歴史的な貴重な作品である。 1296年に着工し、およそ600年かかって完成した。 ポンテ・ヴェッキオ1345年に再建された
アルノ川にかかる橋の両側には彫銀細工点が軒を連ねて
観光客で賑わっている。
ウッフィッツイ美術館
メデイチ家のコモジ1世により1560年に建てられた。15~16世紀にかけて西洋美術の新しい道を開拓したルネッサンス芸術。この時代の秀作が所蔵されている。
画廊:ここの廊下が殺風景なので、ここに彫刻や絵画を掲げたところから呼ばれるようになった。 ミケランジェロの聖家族 プリマベーラ(春)ボテイチェリー1482年頃の作品
ヴィーナスの誕生:ボテイチェリー1483年頃の作品 ウルビイーノのヴィーナス:テイツイアーノ1538年の作品 ラファエロのヒワの聖母:1505年頃
レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知 サンタ・クローチェ教会:ミケランジェロ、ガリレオガリレイなどが眠っている
付近には革製品の店が多く、オロビアンコの名刺入れとキーホルダーを買った
アルノ川
シニヨリーア広場:
レプリカのダビデの像       ヴッキオ宮は14世紀に建てられて現在も市庁舎として使われている。   ランツイのアーケード建築で、数々の傑作彫刻が並んでいる。退治したメデューサーの頭を持つベルセウス
海鮮ピッツア マルゲリータ
昼食にピザを注文した

ミケランジェロ広場
アルノ川、ドーモ、ヴェッキオ宮、など市内が一望できる。
41年前のシニヨリーア広場
41年前の同じ場所(ミケランジェロ広場)当時は1$360円 今日は紬のお対で

リボルノ港を19時出港し、翌朝7時カンヌ港へ入港した。
夜明けのカンヌ。7時カンヌ港の沖に投錨 港が浅いので、ノルウエージャン・エビック号15万5千トンは着岸できない。テンダー(救命と間違ていました)ボートで上陸する
ヨロッパの一大リゾート地,
快晴で美しい海と温暖な気候、気持ちの良い港町。
カンヌ国際映画祭の会場があることでも有名である
2011年にはG20の国際会議が開催された。
海辺には高級ホテルやレストランが立ち並ぶ。
エズ村へ高速道路を経由してバスで30分 香水工場のお店『フラゴナール』です 香水工場にて
こんなにも購入した。ハンドクリームは荒れた老人の手は優しくなった。 女性は真剣に説明を聞いている。 中世に異教徒からの攻撃を防ぐために岩山の上に造られて鷲の巣村。エズ
このような村がコート・ダジュールには100近くある。
曲がりくねった石畳の小道を登る。
熱帯植物園とエズの街並み 眼下に海が広がる絶景は石畳を登ってきた価値がある ニーチェの小道がある。
15階のレストランから、カンヌ港の眺め 15,16階船尾のスパイスH20で、今日は絞りの羽織で
昼はサンデッキでのんびりと、夜はイベントでナイトクラブになる。
CIRQUE DREAMS AND DINNERは、
スリル満点のショウでした。1人48$追加料金がいった。
今夜のデナーはテイストで、ヨーロッパレトロスタイルのレストラン セミスイートの船室 アクアパーク:子供にも大人にも、大人気

カンヌ港を16時出港し翌朝7時マルセイユに入港した。
南フランス、プロバンス地方の港町マルセイユは、紀元前600年ギリシャのフォカイア人が築いた植民都市でフランス最古の都市です。天然の良港に恵まれ、商都として発展しました。北側はサンジャン要塞、南側はサンニコラ要塞でその入口を護られる旧港があります。
マルセイユの古い港とノートルダム聖堂が見える。                  新港に着岸したノルウエージャン・エビック号からの眺め マルセーユの古い港
ヨットハーバーのある旧港にはレストランが立ち並ぶ。 町のシンボルであるノートルダム・ド・ラ・ガルド・バジリカ聖堂は、
ローマビザンチン様式の聖堂で
港の街並み
エク・アン・プロヴィアンスセザンヌが晩年を過ごした水の都
  歴史的には、ローマ帝国終焉後、プロヴァンスは536年にフランク王国に含まれ、947年にはブルグント王国内のプロヴァンス侯領となった。その後エクサン=プロヴァンスを首都とするプロヴァンス伯領となったが国境は変動した。1388年、ヴァール川東側の領土は失われてサヴォイア伯国fr)に併合され、サヴォワ内でこの地方はニース伯領となった。約1世紀後の1481年、プロヴァンス伯領はフランスルイ11世が相続し、フランスの州となった。この時代、現在のオート=アルプ県ドーフィネ州の一部となっていた。ヴネッサン伯領は1274年から教皇領となり、1348年からアヴィニョンが教皇領となって、フランス革命中の1791年にフランスに併合された。
「世界で最も美しい通り」と讃えられる”ミラボー通り”。 セザンヌがよく通ったカフェ
噴水:市内の各所に見事な噴水があります。古代から水を引いて市民に配給していた。水が貴重な地方の中にあって、エクス・アン・プロヴァンスは数多くの水源をもっていました。しかし、水が噴水としてふんだんに使われるようになったのは、19世紀後半になってからのことで、ヴェルドン運河とゾラ・ダムが建設されたおかげです ピザ屋さん 砕いたアーモンドを原料とするエックス銘菓のカリソンなど沢山のお菓子がある。
リシェルム広場では、年間を通じて毎朝、地元の生産者による市場が開かれている。
左は市庁舎として現在も使われている
花屋 果物の店
   サンソプール聖堂
 5世紀から18世紀にかけて徐々に建設された大聖堂です。そのファサードには、様々な時代の建築様式が読み取れます。ロマネスク様式の扉とローマ時代の壁が隣あわせとなり、豊かに彫刻を施したゴシック様式の扉の上には、1323年から1425年にかけて建てられた鐘楼がそびえます。内部の洗礼室は、5世紀の建物部分の上に作られています。中庭を囲む12世紀の列柱回廊は、静けさと優雅さに満ちています。
ニコラ・フロマン作3連祭壇画『燃ゆる茨』


16時にマルセーユを出港し、スペインのバルセロナ港5時入港した。
7時1分日の出      モンジュイックの丘からの眺め  ノルウエージャン・エビック号が停泊している。          街中にはサクラダファミリアが見える。
1904~1906年にかけてガウディが改装を手がけた邸宅。淡い青や緑、紫色のタイルやガラスで装飾され、窓の部分も繊細なステンドグラスを施したおとぎの国の家のような建物。
バルセロナの高級ショッピング通り、パセジ・デ・グラシアにそびえるカサ・ミラ。現在も住人がいる民間住宅です。切り出したままの石が建物の素材としてそのまま使われているので、石切り場(ペドレラ)とも呼ばれています。地中海をイメージした波打つ外観だけでなく、海草をイメージしたバルコニーの鉄の欄干や、ローマ時代の兵士の兜をモチーフにした屋上の煙突など、細部もユニーク! 最上階にはガウディの博物館や実際の住居のように家具が並べられたスペースもあります。
サクラダファミリア
1882年礎石が置かれ、翌年からアントニ・ガウデイガこの建築を引き継ぎ、大聖堂をより優れた革新的なものにするために43年間取り組んだ。今もなお建築が進められている。

バルセロナ空港を15時30分に離陸し7時間の飛行で午前0時30分アラブ首長国連邦のドバイに到着。3時にエミレーツ航空は9時間で17時に関西国際空港に到着した。