インドの旅

 インドとは、紀元前2300年頃古代インダス文明発祥の地として-インダス文明の都市は城壁と市街地が有り、整然とした計画の元に造られ、レンガの家でドラヴィダ人は暮らしていた。街には沐浴場が建てられ、人々はここで神に祈りをささげていた。ところがインダス文明はわずか500年で滅んでしまった。滅亡の原因は自然破壊や砂漠など考えられるが不明である。-、その後紀元前1500年頃アーリア人がインド北西部に侵入し、定住農耕社会を形成した。カースト制度の前身であるヴァルナ制度が根づいた。紀元前400〜500年前にバラモンを頂点とするヴァルナ制度と動物を生贄にする宗教などを否定する仏教が起こった。これが世界3大宗教へと発展してゆく。ー西遊記で天竺として記憶がある。(天竺の名は『後漢書』に出てきている。)また仏教の発祥地として、東インド会社やイギリスの植民地、世界中で最も民族衣装を着ている国としてしか理解していなかった。
 インドでブッダ(563年頃誕生)が悟りを開き仏教が誕生したが、仏教は三蔵法師(仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶)がインドから中国に伝えた。特に西遊記で知られる玄奘三蔵(602〜664年)は629年に陸路でインドへ向かい、645年に経典657部や仏像などを持って帰還したと言われている。玄奘はサンスクリット語の経典を中国語に翻訳し、法相宗の開祖として、また般若経が現在までも唱えられている。
インドには仏教が成立した紀元前500年には、すでにバラモン教があり、4世紀ころにはバラモン教から分離したヒンドゥー教(輪廻や離脱、沐浴)が起こり現在は国民の8割が信者である。イスラム教(偶像崇拝を禁じる)は10世紀ごろ中央アジアからインドに入り、16〜19世紀のムガール帝国もイスラム王朝だ。仏教はイスラム勢力によって滅亡し、20世紀になって復活し現在0.8%の信者が、またキリスト教は1498年のバスコダガマの来航後改宗者が急増し2%の信者がいると言う。1947年に悲願の独立を果たした。悠久の歴史に育まれた世界遺産は32も指定されている。乾季の2月に、カルスト制度による貧富の格差の激しい、活動するインドの生々しい現状を見る旅に出かけた。

デリー 

関西国際空港を13時25分発、香港経由で11時間30分の飛行 エアーインデイアはデリー国際空港へ日本時間午前1時(現地21時30分)に到着した。 首都デリーのザ・グランドホテルのフロントから見る中庭。
日本にはない立派なホテルだ。部屋も広く、室内は大理石をふんだんに使っている。
ホテルのフロントにて オートクリーシャーと警笛の騒音、信号機などない 紅茶の店

クトウブ・ミーナールインドで最も高い石像建築
クトウブ・ミーナールの柱にはコーランのレリーフがある。
アラビア文字でコーランの聖句が書かれている。
 円柱と角柱が混ざっている。
 1199年後の奴隷王朝の君主になるクトウブッデーン・アイバクが北インドの征服を記念して建てたものだと言われている。
73mのインド最大の石像建築。ヒンドウー教建築とイスラム教建築が癒合した建築 異教徒の柱も利用しており、多彩な模様が混在
27以上のヒンドゥー教やジャイナ教の寺院を取り壊して、残骸を再利用して建てれたモスク。 建設途中で放棄された幻の塔。完成すればインド最大のイスラム塔になるはずだった。
フマユーン廟
1570年頃に建てられたムガール帝国第2代の皇帝フマユーンの霊廟。タージ・マハールの見本となった皇帝の霊廟
入口の門 上下2層の左右対称、赤砂石と白大理石のコントラストが綺麗だ 広大な庭園を4分割した幾何学的構成の庭園。芝生と赤土
マハトマ・ガンジーこの地で暗殺された。糸を紡いだ糸巻き器を初め生活品や写真が展示されている。 プラーナー・キラー16世紀に建てられた要塞
インド門:第1次世界大戦の戦死者を弔うために作られたモニュメント。パリの凱旋門を模した門の壁には約9万人の兵士の名前が刻まれている。 ラージ・ガート:マハトマガンジーが火葬にされた公園墓地 オートクリーシャー:市民の身近な交通手段
 ペナレス    
デリーから空路1時間30分で世界最古の都市ペナレスへ着く。ヒンドウー教最大の聖地である。ガンガー(聖なる)川とガート(沐浴)川は憧れの聖地、一生に一度はこの地で沐浴をして、俗性の穢れを浄めたいと願っている。そのためにインド中から巡礼団がやって来る。年老いてこの町で死に、荼毘に付されるためにやって来るものもいる。荼毘に付されると必ず解脱できると広く信じられているからだ。
午前5時30分ホテルを出て徒歩にて聖なる川ガンジス川へ 道端では乞食がたくさんおり、子供、障害者それに赤ん坊を抱いた少女が物乞いをしている。喜捨の精神(バクシーシ)は富める者が貧しい者に施しをすることによって、自分が功徳を積むことができると信じている。 露天商も多い。これは楊枝、それとも歯ブラシ
6時、すでに裸で沐浴をしている人がいる。 沐浴をしている
 ガートという傾斜した階段状の沐浴場があり、ガンジス川の西岸、約 6.4 q間を 84 のガートがある。沐浴とはヒンドゥー教の身を清める儀式で、まず川に入り、太陽に向かい聖水を手に汲み、祈りの言葉をつぶやきながら太陽に捧げ、その後、自分の頭や体に水をかけて清める。沐浴は朝日に向かって行うのが最も良いとされており、そのためヒンドゥー教の巡礼者たちは早朝から、このガートからガンジスの水の中に浸り、朝日に祈りを捧げる。 
洗濯屋が伝統的な洗い方をしている。
傍では生活排水や死体を流している。
インド人は死んだあとにここで荼毘に付され、灰を川に流し、この世から形を残さず去るのを理想としている。火葬用の薪が積まれている。 花売りが来る
花の真ん中に蝋燭があり、点灯して川に流す。 日本の精霊流しに似ている。 7時川の東に日が昇る。
最も多くの巡礼者が集まっているダシャージュワメード・ガード。 露天商 ザ・ゲ-トウエイホテルガンジスは広い庭園とプールを備え、別世界だ。ヴァラナシのマハーラージャの離宮の一角に建てられて高級ホテルだ。

サールナート
バスで12Km離れたでサールナートへ:ここはお釈迦様が悟りを開き、初説法をしたところ。
ダーメークストーバー:アショカ時代から6世紀に築かれた巨大な仏塔。当時は90mの高さであったとされるが、現存するのは高さ42m、直径28m
牛の糞による土(糞)塀
ムーラガンダ・クテイ寺院 1931年に再建された 本尊は復刻した金色の仏像 ブッダは、ここボードガヤの菩提樹の下に座り悟りを開き、5人の弟子に初説法をしている
日本人絵師、野生司香雪氏の手によるブッダの生涯を描いた壁画がある。
母マーヤー夫人の右脇から生まれたシッダールタ太子。
西暦紀元前566年の4月8日の事 でした。
7年におよぶ苦行の後に、村娘スジャーターから乳粥の供養をもらう太子 ボードガヤの菩提樹の下に座り、ついに悟りを開き真理を知る。
シルクの店。良質のシルクを産出することで知られている。マフラーを購入。 インド定食であるタリー。兎に角辛い。口が火傷した感じだ!
 アーグラー 
ペナレスから200Km飛行機で1時間30分でアグラに着く。古都アーグラーは紀元前から存在していたとされる。1526年ムガル帝国の創始者バーバルが都と定め、デリー遷都までの約100年間栄華を極めた都市。
 ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが最愛の妻の死を惜しんで造らせた霊廟だ。
22年の歳月と2万人の職人を費やして1653年に完成した。
 建築によって財政は緊迫し、後には実の息子によってアーグラー城に幽閉されることになった。
入口の塀 大理石と赤砂岩でできた南門がせいもんだ。とんがり頭のアーチや刻まれたコーランにイスラム様式が伺える
白大理石が綺麗だ。 水路や通路で均等に4分割された庭園、ドームの高さ66m。4本の塔 壁面に施されたインドの伝統工芸の象嵌細工と壁面レリーフ
草花のモチーフを立体的にあしらている。
象嵌細工は、ルビー、サファイア、アメイスト等世界各地から取り寄せた奇石をふんだんに使い、草花模様を表現してる。 左右にあるモスクは赤茶色が対になってタージ・マハールを引き立てている タージ・マハルの裏にはヤムナー川が流れている。
タージ・マハールから見る正門と4分庭園
大理石工場へ
大理石に施された綺麗な象嵌細工。余りに綺麗なので壁掛けに1個購入した ゲートウエイ・ガンジス・ヴァラナシホテル。マハーラージャの離宮の一角に建てられたホテル。プールもあり、別世界の感じがする。
敷地内、ホテル入り口とセキュリチ―チェックは厳しい
アグラ城(世界遺産)
ムガール帝国の繁栄のシンボル。ムガール帝国第3代皇帝アクバルnよって1573年に建てられ、以後第6代皇帝アウラングーゼの時代まで造営が重ねられた。高さ20m、周囲2.5Kmの2重城壁にぐるりと囲まれた敷地内には、皇帝一家の居住は勿論モスクやバザール、一般市民の居住区まであり1つの大きな街として機能していた。
アグリー城の入り口 アマル・シン門 アマル・シン門:赤砂岩で築かれた、 ジャハーンギール宮殿:
第3代皇帝アクバルが息子のジャハーンギールの為に作った宮殿
ムサンマン・ブルジ:シャージャハーンが幽閉されて7年間過ごした場所 8角形の塔からは、 ヤムーナ川の向こうにタージ・マハルが見える
白大理石の象嵌細工とや左右対称のデザインや内装などからもヒンドウ-様式とイスラム建築を融合させようとしてことが伺える。
屋内手前には噴水がある。
当時は天井に広がる象嵌細工は、金箔で彩られていたという。 デイ-ワ-ネア-ム:皇帝が市民の訴えを聞き、裁きを下した白大理石の間
カシミヤのお店:カシミヤとはインド北部高山地帯カシミールの山羊の織物。
マフラーを買ったが、肌さわりが良く、軽くて暖かい。
堂々と歩く牛。そこかしこに牛の糞
ファテイープル・シークリー(世界遺産)
皇帝アグラバルのたった1つの悩みは、後継者に恵まれないことだった。あるひシークリー村の聖者に『3人の男の子が誕生する』と予言され、翌年本堂に男児を授かると、皇帝はこの村に遷都し、ファテイープル・シークリー
(勝利の都シークリー
)と名ずケた。しかし深刻な水不足と酷暑に見舞われ1585年にラホール(現在のパキスタン)に遷都した。
長方形の前庭を デイーワーネカース:私的な謁見室として使われた 4つの小塔が可愛いが
アクバル帝の『宗教の柱』7mの柱の上に彫刻の玉座がある。 皇帝は五重の塔の最上階から見下ろし、人間チェスを楽しんだ
カーブガー:正方形の池に囲まれた壇の奥には、プライベートルーム
ジョーダーバーイー宮殿:皇妃の名前を関した、三人の夫人たちの住居。
ジャイプール魅惑のピンクシテイ 
8つの門を含む約13Kmの城壁に囲まれた旧市街は、王宮などの建物はすべてピンク色で統一されている。
ジャイ マハール パレスホテルの玄関、敷地の入り口にも門がありガードマンが警戒しており、バスを降りてもガードマンによるチェックがある。 ホテルの部屋から望む中庭、広い 元首相官邸をタージグループがホテルとしてリニューアルした憧れのホテル
緑に囲まれた広大な敷地でのんびりと極楽ステイ
夜のイベント
風の宮殿:5階建てのラージプート様式(5世紀以降ラージャスターン地方に定住したヒンドウー系の王族武族の一族がイスラムとヒンドウーを融合した独特の美術様式))。1799年に建てられた。窓には繊細な透かし彫りのスクリーンで飾られ、風通しを良くする為に正面に張り出している。外に出られない宮廷女性は窓から見える様子を楽しんだという。 コブラ使い 天文台
1728年から6年を費やして年出来た天文台。
高さ27mもある高性能な日時計兼赤道儀
時刻、星の観測など用途の違う16の装置が現在でも正確に動いている。 グプタ朝の時代には、数学や天文学の分野で発見や発明がなされた。紀元2世紀に零の概念が
シテイパレス  
1729年シャイブルへの遷都にあたって、当為のマハーラジャであったサワーイ・ジャイ・シン2世が作ったのに始まり、歴代の王が増築を繰り返し、ムガルとラージャスターンの建築様式が見事融合している。
大理石の迎賓館 一般市民謁見の間 繊細画と金銀細工
月の宮殿という名の館:マハラジャの住居

上は水の宮殿
1735年マハーラージャの夏の宮殿として建てられた。








妻は、サリーを試着してみました。5mほどの細長い布を腰に挟みながら巻き、残りを肩から掛けます。
私はターバンを
 アンベール城 
1592年この地を支配していたラージプート族のマハーラージャ・マーン・シン1世がこの場所に築城した。150年間も増改築が行われた。4WDでアンベール城まで行く
アンベールに首都が置かれ、150年後の1729ジャイプルへ遷都した。 兵隊の訓練などが行われた広場
柱頭にへ神聖な象の立体彫刻ががある。
一般謁見の間として使われた柱廊玄関   壁画に施されたフレスコ画が描かれている。
緑が織りなすイスラム庭園:マハーラージャが後宮の女性たちと好んで余暇を過ごした”歓喜の間”部屋の中に大理石の水路を引くと言う贅沢な仕掛けを施し、暑気の中でも涼しく過ごすことが出来た。 きらびやかな鏡の間、12人の王妃たちのハーレム
デリー、香港経由で関西国際空港へ帰ってきた。