盆 踊 り 2
山鹿灯籠まつり
女性の頭に載せた金灯籠が、ゆらりゆらりと揺れる幻想的な美しさの山鹿灯籠まつり。是非行って見たくなった。
山鹿灯籠の由来は、色々な説があるが、次の説が一般的のようである。1300年の昔、第12代景行天皇が九州巡行の折り、菊地川を溯って山鹿に上陸しようとしたが、辺り一帯に白霧が立ち込み、天皇ご一行の行く手を阻んだため、山鹿の里人がたいまつを掲げて案内したと云われている。その時以来里人は、行在所跡(大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火を献上したのが、灯籠祭りの起こりと云われている。


公式ポスター 灯籠娘なりきり体験
金灯籠とオリジナル浴衣を着て、人力車に乗っての記念撮影。撮った写真はその場でプリント。フォトフレームに入れてで500円安い)、
やはり男性には似合わない?



八千代座
(明治44年完成、平成13年改修完了)
9月、10月の土曜日の夜、”山鹿風情物語”が開催されている。幻想的な山鹿灯籠踊と勇壮な山鹿太鼓の競演が楽しめる。
八千代座の入り口で 八千代座の2階席で


八千代座の極彩色豊な天井広告
竜神、風神の柄の浴衣で

よへほ節
は、
明治以降地元で愛誦されている民謡で、八月十六日の灯籠祭の夜、山鹿灯籠踊りに合わせて歌われる。その発生が明治以降の事でもあり、民謡と言うよりむしろ俗謡系に入る三味線唄で、昭和八年(1933)野口雨情に歌詞の改作を依頼してできたものが、今日のよへほ節である。歌詞の最後につく「よへほよへほ」という囃子詞から来たものである。


幻想的な”よへほ節”のおどり


山鹿太鼓

 時は元禄15(1702)年12月14日深夜、降り積もる雪の中、大石内蔵助が打ち鳴らす山鹿流陣太鼓とともに今は無き主君浅野内匠長矩の仇を討つべく吉良邸にどっと流れ込む浪士達、、、、、で有名な山鹿流陣太鼓や山鹿素行とは全く関係がなかった。
 山鹿素行(1622年〜1685年)は儒学者、兵学者、山鹿流軍学の始祖で、会津若松で生まれ、6歳で江戸に出て、林羅山の門人となり朱子学を学ぶ。1652年赤穂藩浅野に一千石で仕えたそうです。山鹿素行は朱子学に反論を唱えた結果、学界、政界の反発を買い1666年から75年まで赤穂浅野家に幽閉された。映画や講談の討ち入りでは、静かな討ち入を戯曲化して、音の出る陣太鼓と、幕府に反逆した山鹿素行とを結び付けて人気化したのではないでしょうか?
昭和57年に産声をあげた山鹿太鼓保存会



山鹿の豊前街道めぐり
平安時代から名湯の里として人々が集まり、菊池川沿いの農作物の交易が繁栄をもたらした山鹿は、江戸時代には参勤交代の豊前街道(肥後熊本から筑前博多を通り豊前小倉に至る)としてさらに繁栄した。
夏塩沢の着物に絽駒の袖無し羽織で出掛けました。

まずは惣門から出発。   木屋前で

        右は民権政治発祥の地である光専寺

桜湯(山鹿3大温泉の一つに数えられたさくら湯の昔の玄関がそのまま残っている。


あし湯、   国道325号線沿いにあり、誰でも気軽に温泉気分が味わえる。

山鹿灯籠民芸館   山鹿灯籠は、木や金具を一切使わず、和紙と少量の糊だけで作られる。

山鹿灯籠の店、”なかしま”   灯籠師は現在8名しかいない。

八千代座 大宮神社(景行天皇行宮跡地に天皇を祀った神社)