珠丸遭難   松崎直子著   対馬新考より転写

 対馬という地名は、私にとって特別の響きを持っている。それは、朝鮮からの引き上げの記憶と結びついていた鮮明な烙印となって残っているからである。
 小学校に入学した年の夏休に終戦を迎えた私は、父母、姉、妹の五人で、現在の韓国江原道寧越から引き揚げてきた。寧越は田舎だったので周りに日本人は少なく、地域内の数家族がまとまって引き揚げた。みんな着れるだけの服を着て丸々と膨れ上がった上にリュックを背負い、トラック、川船、列車を乗り継ぎ、乗物のない山道を歩き、野宿をしながら釜山に着いたとき、二歳の妹はお腹をこわし、食べ物を全く受け付けなくなっていた。
 釜山からは帰る船がないために、小さな漁船をチャーターし、対馬までどうにかたどり着いた。小さな船は物凄い大波にもまれ、空中に放り上げられたかと思えば、うねりの底に滑り落されるといった恐ろしいしけで、船倉にぎっしり座っている集団が右に左に大きく滑り、低い天井を支えている細い柱には、何本もの手がとりついていた。この嵐は台風の余波だったのだが、一刻も早く日本に帰りたい父母達の危険な冒険だったらしい。
 吐くものもなくなり、泣き声もたてられない程になって対馬にたどり着いた時、妹はすっかり弱り、血便を出して危篤状態だった。
 今動かせば助からない妹のために、私たち一家は故郷福岡を目の前にして、暫く対馬に逗留することになった。厳原の旅館に落ち着いた妹は両親の必死の看病と旅館の人の暖かい協力で少しずつ快方に向かい始めた。厳原の町は大陸からの引揚者が大勢たまり、船が出る日をまちあぐねていた。数日経ったある日『タママル』という大きな船が出ると言って、一緒に対馬まで来た近所の人たちは皆喜び勇んで荷物をまとめ港に向かった。妹の容体がまだ思わしくない我が家だけが旅館に取り残された。
 どのくらい経ってからか覚えていないが、旅館の人々の騒ぎに驚いて二階の窓から表の道路を見下ろすと、左側の港の方から担架や戸板に乗せられて、白い布でぐるぐる巻きにされた遺体がどんどん運ばれてくるのを目撃した。出港したばかりの『タママル』が浮遊機雷にぶつかったのである。
 今考えてみると白い布でくるまれていたのは、きっと爆発で傷んだ遺体を島の人が手厚く処置をしてくださったのではないかと思われる。助かった人は殆どないと聞いた。
 その中に『帰ったらリンゴを送ってあげるからね』と真っ暗な貨物列車の中で言ってくれた優しいウサミ先生もいらっしゃったのだ。私の担任の若い先生で、出身は青森だったそうだ。学校の友達も、警察の人も、郵便局の人もみんな死んでしまったのだろうか、、、、
 戦争で疲弊しきった日本はどこも物資不足だったのだろう。妹の病気を治す薬は今ならどこの薬局でも売っているビオフェルミンという整腸剤だったのだが、当時の対馬の薬局で売ってくれるのは、わずか1日分程に制限されていた。はじめ母が買に行き、無くなってもう一度買に行くと同じ人には売らないと言われ、父が買に行った。すぐに無くなる分量なので次は姉が行く。そして私が買いに行って人数がつきてしまった。厳原の町にはもう1軒薬局があると聞いて、遠くにあるその薬局までまたこの順番で買に出かけた。父に連れられて薬局の近くまで行き、物陰に父が待っている間に私が買ってくるといった方法で、最後に薬を手にした頃、妹は体調を回復し、食欲も取り戻してきた。1瓶の薬を毎日すこしずつ小分けして売ってくれたようなものだ。
 珠丸事件がどうだったのか、幼い私にはよく分らないまま、のんびりと対馬の秋を楽しんだ。、、、、
 10月の初め江原道を発ったとき、私はボア付きのお気に入りのオーバーを着せられていた。夜中に荒野で汽車が止まり、私達は貨物列車からぞろぞろと降ろされ、線路わきに並ばされ、ガタガタ震えながら貴金属や宝石類を取り上げられることがあった。その時、闇の中に白い雪が降っていたのをしっかり覚えている。丹陽という町に入る前に、山の中の農家の庭先に私達一団は野営させてもらったが、その時も私達子供は縁側の近くのオンドルのぬくもりが、わずかでも届くようにと配慮されるほど夜は冷え込んだ。釜山港の構内でもリュックにもたれて冷たいコンクリートの上で寝た。そんな寒さをしのいで来たからか、厳原の暖かさはことさら印象に残っているのかもしれない。
 私は大人になってから、時々この珠丸事件を思い出し、引揚者や先輩に聞いてみるが誰一人知っている人はなく、私の中でも次第に風化し始めていた。
 戦後50年近く経った1994年、私は厳原の町を訪れた。そして対馬歴史民族資料館の横に、『珠丸遭難』の記念碑を見つけた時には思わず、『あったあ』と叫んでしまった。そのわずか二年前に建てられたまだ新しい記念碑の説明文を読むと、乗船名簿の数と乗組員を合わせて730名が遭難したそうだが、闇切符で乗った人々や、台風の余波で待たされて苛立った引揚者たちがどさくさに紛れて多数乗り込んだ事も想像され、実際には730名を大幅に上回る人々を満載して出航したらしい。当時の対馬海峡には旧日本軍が設置した浮遊機雷が数千個も浮かんでいたそうである。
 1945年10月14日に起きたこの事故の後、私達家族は妹の病気のお陰でまさに九死に一生を得て、10月30日博多港に帰り着いた。家族5人は強運であったとしか言いようがない。