百済2ー百済文化祭を訪ねる |
日本の飛鳥時代、日本に渡ってきた渡来人の多くは百済の人びとだったと言われている。彼らは最新の技術(明日香寺の屋根瓦、七支刀など)を日本にもたらし、文化の発展に寄与し、当時の王権内部でも重要な地位を占めたと言われている。 660年新羅によって滅ぼされてしまったが、毎年その存在を伝えるために、公州と扶余で祭典が開かれている。212年は10年に1度の大百済展が9月23日〜10月9日に開催された。ワールド航空サービスも10月5日〜8日企画したので参加した。 百済の起源が史料に明らかになるのは、馬韓の地域を統一し、現在のソウルの漢江の南岸に漢城を築き独立国家となったのが346年第13代近肖古王の頃である。国号を百済とした。371年平壌を攻めて高句麗の第16代故国原王を戦死させた。倭国は369年任那を確保しし、ここから朝鮮半島を干渉した。その後は高句麗の広開土王に押され気味となり、第17代阿芋王は高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになり、397年太子を人質として倭国に出したり、七支刀(奈良県天理市の石上神社に現存する)を倭国に送った。また405年百済の阿直岐,博士王仁などが応神天皇の招きで日本に渡来し、論語、漢字を伝え、皇子(後の仁徳天皇)の教育をした。405年阿芋王が死ぬと、日本に人質として送られていた太子を帰国させ、第18代腆支(てんし)王となり、倭国との関係を維持した。 |
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ソウル漢城346年〜475年 高句麗に攻められた 現在のするには百済の遺跡は殆どなくなっている。 朝鮮半島の北方をに君臨した高句麗は朱蒙(チュモン)が紀元前37年に建国したとされている。百済は朱蒙の次男オンジュが建国したと言われている。この頃は高句麗と共に新羅、百済の3国時代であった。 伽那(任那)と呼ばれる地方は倭国が支配していたとされている。 313年中国の楽浪郡を攻めた陥落させた。562年新羅は伽那国を滅ぼした。612年隋のよう帝は大軍を率いて高句麗を攻めるも大敗して隋が滅びた。百済は高句麗に対抗するために倭国に接近した。 そして百済と高句麗は同盟関係を築くと、新羅は唐と結び660年百済を滅ぼした。 倭国は百済復興の為に都を福岡県の朝倉宮に写し、百済の王子扶余豊璋を立てて白村江に5万ともいわれる援軍を派遣したが、唐新羅連合軍に敗れて、多くの百済人が倭国に亡命した。 668年高句麗も新羅唐連合軍に滅ぼされる。
熊津(公州) 22代文周王が高句麗に追われて遷都した。
扶余 百済最後の都 538年〜660年 538年第26代聖明王は泗びの扶余城に遷都し、仏教文化を花咲かせた。百済文化の最後の都である。
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