敦 煌
雪を頂いた高い山々が連なり、それを過ぎるとタクラマカン砂漠の東に出る、すぐに小さなオアシスが見えてきた。西安から1650Km飛行機で2時間30分で敦煌であら(敦とは大きい、盛大。煌はかがやく、繁栄する。の意味)
敦煌を漢が制圧すると、漢の武帝の頃、河西回廊の道が発見され、西との交通が開けた。敦煌は中国本土の出口であり、西方からの入り口ともなった。敦煌を制する者は中央アジアを制することになり、多くの民族や国が入り乱れる歴史の舞台になったのである。西域と呼ばれた現在の新疆ウイグル自治区のオアシス国家群も、すべて敦煌を経由して中国本土を往来している。また、チベット高原とも、ヒマラヤの峠を越えてインドや現在のパキスタンとの交流も、すべて敦煌を経て行なわれている。敦煌の西に防御拠点の玉門と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となり、西方からの汗血馬、葡萄、ゴマなどの産物や仏教がこの地を通って漢に運ばれ、漢からは絹が西方へと運ばれた。漢にとっての経済・軍事に於ける重要な拠点となり、豊かな土地と防衛拠点としての使命から厳しい政治を避けることから、税も物価も安く、住民は平和と豊かさを楽しんでいた。この頃の人口が3万8千ほどと言う記録があり、この頃の敦煌がいかに栄えていたかが伺える。ただしこの地の住民は漢政府により送り込まれた窮迫農民や犯罪者であった。そして敦煌の住民が漢の中心地へと帰ることは禁じられていた。また366年から僧楽僔(らくそん)によって莫高窟の掘削が始まっている。唐代にも引き続き、西域への玄関口として重要であった。しかし安史の乱により唐政府の統制力が弱まり、この地は781年には吐蕃の侵攻を受けて、支配下に入った吐蕃が唐と対立すると、吐蕃の支配下では交易が行われず、経済の動脈を絶たれた敦煌は一気に衰退した。
北宋時代にはタングートが西夏を建て1036年敦煌を占領した。敦煌文書は莫高窟の耳窟の中に放り込まれ、入口を塗り込められたのはこの時代と考えられている。1227年モンゴル帝国が西夏を滅ぼし、引き続いて元の支配下に入る。しかしこの頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、この地の価値は下落し、寂れた町へとなっていく。
その後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされていなかった。しかし1900年この地にいた道士が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟(第17窟, 後に「蔵経洞」と命名)から大量の文献を発見した。
1907年にその噂を聞きつけてやって来たイギリスのオーレルが数千点の文書・絵画を買い込んでイギリスへと持ち帰った。翌年フランスのポールが同じように約三分の一に相当する文献をフランスへ持ち帰った。これらが大英博物館とフランス国立博物館に保管され、研究者の間で敦煌の名が広く知られるようになった。
後にロシア(1909-1910年)、ドイツ(1914-1915年)、日本の大谷探検隊(西本願寺の大谷光瑞よって派遣された)・アメリカの探検隊が少量であるが、入手して研究を進めた。これら敦煌文献の発見が、敦煌を有名にした。
|
|
|
|
祁連山脈(きれんさんみゃく )は、中国の青海(せいかい)省と甘粛(かんしゅく)省の境界にある山脈で、西北西から東南東に約800キロメートルにわたって連なる。大通山、托来(とうらい)山、疏勒南山、党河南山など
多くの山脈に分かれている。酒泉(しゅせん)県南方にある主峰祁連山(5547メートル)をはじめ、5000メートル峰数座を数え、高山地帯には万年雪と氷河の形で水を蓄える。山地から流出する多くの川が山麓(さんろく)に点々とオアシス集落を成立させる。モンゴル高原側の北麓には河西(かせい)回廊があり、ここに1959年以来蘭新(らんしん)鉄道が通じている。党河南山など多くの山脈に分かれている。
敦煌は高い山と砂漠に囲まれた、平均海抜1138mにある、1400K㎡と小さなアシスである。ゴビのオアシスと呼ばれている降水量は年間39mmと晴天が多い。 |
|
|
|
敦煌空港の西南は砂漠である。防砂柵で囲まれている。
一度強風が吹くと沙塵が舞い視界が妨げられ空港は閉鎖される。 |
空港からホテルへの道 |
夜のバザール ドライフルーツが美味しかた |
鳴沙山
ゴビの砂漠の一部と言われる、砂嵐が酷い。目が開けられない、顔に砂が当たって痛い、前が見えない |
|
|
|
敦煌の南約5Kmにある東西40Km、南北50Kmにわたる広大な砂の峰、それが鳴沙山、月の砂漠を最もイメージできる場所である。 観光用のラクダの数 |
|
|
|
砂嵐で前が見えない |
らくだに乗って、らくだ使いが写真を撮ってくれたが80元を要求された。
この写真を撮るのが1500円高い! |
稜線の砂嵐、 |
|
|
|
|
向こうは月牙泉。三日月型の泉で東西200m幅は50m弱、深さ5m
枯れたことのない泉 |
口の中も砂だらけ。靴カバーが20元 |
莫高窟
敦煌の郊外25Kmの砂漠の中にある。鳴沙山東端の断崖に開削された大規模な石窟。366年鳴沙山の向かいの三危山が夕陽を浴び金色に輝く荘厳な様に心打たれた僧・楽僔が石窟を掘り修行の場としたのが始まりと伝わる
仏教勢力下に有ったことと、乾燥土地であたことが素晴らしい保存状態で残ることが出来た。しかし今世紀初めに日本を含む列強諸国によって海外に持ち出されたのは残念である。 |
|
|
|
南北約1600mにわたって700ともいわれる石窟があり、極彩色で彩られた壁画や2400余体もの色鮮やかな彩色塑像が安置されたその空間は、さながら極楽浄土の趣がする。
幕高窟見学センターでビデオを2本見て、その後専用バスで莫高窟へ、日本語ガイドが付き。内部は撮影禁止。一窟の入場料が100元~500元(1元は18円)、5窟見ると1万円も取られる。 |
|
|
|
現在確認されている石窟は735窟、彩色塑像は2千体、壁画は4.5万㎡にのぼる。横に並べると30Kmになるという。敦煌は漢民族を始め、チベット族、モンゴル族、など様々な民族に支配されたが、どの時代においても石窟の造営は続けられた。出土品には5つの宗教が記録されている儒教、道教、マニ教、ゾロアスター教及び景教である。
右は45窟。唐代の典型的な様式の七尊像、敦煌市立博物館のレプリカです。中央に阿難(釈迦の10大弟子の一人)、右には天王が片手を腰に当て、片手に武器を持ち、足で邪鬼を踏みつけている。 |
|
|
|
開放窟は40窟あるが8箇所と特別窟を3箇所見学した |
莫高博物館前の飛天 |
|
|
|
莫高窟博物館で購入した黄河画伯の『飛天の絵』
楽器を持って舞う飛天の描写は優雅だ。
額縁は楽天市場のないとうに特注した。
第390窟(随の時代)の壁画を模写した。日本の吉祥天、天女によく似ている。天平文化は敦煌にも通じていると思われる。 |
玉門関
敦煌の北西約80kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城
西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。宋代になって西域交通が衰え、衰退した。 |
|
|
|
|
|
敦煌の農家料理 |
漢長城遺址
秦の時代に築城が始まった万里の長城よりも少し後の漢代に築城された長城跡である。 漢の武帝は長城を嘉峪関からさらに西方へ向けての延長線上に位置する玉門関まで延長し、西域の「匈奴」の侵略を防ぎ、河西回廊守るために築かれた。
延長は150kmと言われている。 (明代に築かれた万里の長城の西端は、敦煌の東にある嘉峪関(かよくかん)までであった)
|
|
|
|
|
|
|
陽 関
昔の関所として、西北約80kmの所にあるのが「玉門関」、南西約70kmの所にあるのが陽関、建設は紀元前107年ごろとされ、漢から唐にかけて避けては通れない関所であったが、歴史があまりにも長いために風化が進んでしまっている。古代、陽関は70㎞離れた玉門関とつながっており、その間ほぼ5kmごとにのろし台が置かれていた。玉門関より南に位置するため「陽関」と称された。玉門関と併せて「二関」と称されたが、ある時期には玉門関よりも重視されたようだ。しかし,後漢になるといったん廃止され、唐代になって西域南道(天山南路の南道)の起点としてふたたび復活した。
高校時代に習った王維の送元二使安西が思い出される。 渭 城 朝 雨 浥 軽 塵 客 舎 青 青 柳 色 新 勧 君 更 尽 一 杯 酒 西 出 陽 関 無 故 人
|
|
|
|
張騫の像:漢は大月氏と匈奴の挟撃作戦を狙って張騫を頭に100人余りの使節団を送ったが、陽関を出た直後に匈奴に捕らえられる。張騫は十余年間に渡って拘留された。その後、匈奴の地から脱出し、大月氏にたどり着きBC126年に漢に二人で帰還した。張騫の持ち帰った情報は西域諸国と交易が出来、シルクロードの道を開いた。 |
|
|
|
現在では遠くて荒涼とした場所の代名詞となった陽関であるが、3~4000年前はここはオアシスだった。しかし、その後、山津波や風に吹き上げられた砂によって埋もれてしまい、今はのろし台が残るのみである。 兵舎跡 のろし台が残っている 周囲は荒涼とした砂漠が広がっている。 |
|
|
|
宿泊したホテル 敦煌賓館
「反弾琵琶飛天」は敦煌市シンボルであり、街中に彫像が躍動している |
4世紀末クチャの鳩摩羅什(くまらじゅうー中国では玄奘三蔵と並んで天竺へ行った高僧として有名である)が敦煌にいたとき経典を担がせていた白馬が死んだために、馬を埋葬して塔を建てた。 |
我が家には、日本、中国、韓国製の三体の仏像がある。
左は奈良時代の吉祥天か弁財天(青丹よし奈良の都は咲く花の臭うが如く今さかりなり。と謳われた頃の仏像)
中央は敦煌市博物館の売店で購入した飛天像。天平文化の吉祥天によく似て、ふっくらとした顔と体に楽器を持っている。
右は国宝第1号の弥勒菩薩。韓国製の赤松で作成したと言われている。。 |
|
敦煌博物館の資料より
2012年5月にリニューアルオープンした敦煌博物館。
ここのメインは莫高窟のレプリカ。莫高窟では写真撮影禁止たが、ここでは写真可。 |
|
|
玄奘三蔵法師の行程図 |
|
シルクロードの地図があった。今回の旅行の長安から敦煌、トルファン、烏魯木斉をマーキングした |
|
左はマルコポーロの行経模式図 |
|
|
玄奘三蔵法師は、往路にはここに立ち寄らず、密かに安西から北へ出国した。帰路は西域南路を通って新しい人や馬と共に敦煌に着いた。しかし太宗皇帝からの1通の手紙が届いたので、ゆっくり街を見学せずに長安へ急ぎ帰った。手紙には、ホータンからの運搬費を全て敦煌の役所が支払うことや高句麗遠征が近く行われるため、しばらく国を離れることなどが書かれていた。法師はその手紙を見るや、1日も早く出発して太宗皇帝が遠征に出発する前に拝謁して翻訳に関して国家の援助を仰ぎたいと思った。翻訳するには大量の貴重な紙、人材、場所など莫大な経費がかかる。国家の援助なしでは訳経することは不可能と考えていた。長安まで1650Kmあり政府の決まりでは馬で56日もかかる。 法師は太宗皇帝に謁見するために22頭の馬に荷物を積載し、馬を20回も乗り換え、1日30Km駆けるところを60Km駆け抜けた。長安では凱旋将軍の熱烈歓迎を受けた。洛陽にて太宗皇帝に謁見した。
続きは大雁寺の項に記す。 |
|
|
|
|
|
|
田舎料理:野菜は青々として綺麗で美味しい、特に白菜が美味しい。 紹興酒
紹興酒は米や麦などの穀物を原料にした醸造酒のことを中国酒の分類上では黄酒(ホアンチュウ)とよび、この黄酒を長年熟成させたものだけが老酒(ラオチュウ)と呼ばれる。
さらに、その老酒の中でも浙江省紹興で造られるものだけが「紹興酒」と名乗ることができる。アルコール度数は14~18度 |
|